黒瀬城(くろせ)
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: 西園寺実充
 遺構  : 曲輪、土塁、石塁、堀、井戸跡
 交通  : JR予讃線卯之町駅徒歩20分


       <沿革>
           『宇和旧記』によれば、伊予西園寺氏7代西園寺実充が、累代の居城であった松葉城から
          の居城移転を図り、黒瀬城の築城を開始したが、実充は完成前に死去し、子の公家の代に
          移ったとされる。しかし、実充の嗣子の名は公高であり、家督を継ぐことなく弘治二年(1556)
          に討ち死にしている。一般的には、実充の在世中に築城・移転が完了していたと考えられて
          いる。移転の理由は、松葉城の要害性に難があり、水利も悪かったためといわれるが、異論
          も多くはっきりしていない。
           元亀三年(1572)、実充の跡を継いだ甥の公広は土佐一条氏を攻めたが、かえって一条氏
          を支援する豊後の大友氏に黒瀬城を攻められ、敗れて和議を請うた。天正九年(1581)には、
          河後森城を奪った長宗我部氏に攻め入られ、城下町を焼かれたとされる。同十二年(1584)
          に至って、公広は長宗我部元親の軍門に降った。
           翌天正十三年(1585)の四国の役で長宗我部氏が豊臣秀吉に降伏すると、公広は伊予国
          を与えられた小早川隆景の麾下となった。同十五年(1587年)、九州へ転封となった隆景に
          代わって宇和郡の領主となった戸田勝隆は、公広をはじめとする領内の土豪に下城を命じた。
          公広は九島の願成寺に隠棲したが、同年に勝隆に誘殺され、伊予西園寺氏は滅亡した。
           黒瀬城には戸田家臣岩城少右衛門が城代として入った。文禄三年(1594)に勝隆が死去
          して戸田家が無嗣断絶すると、黒瀬城も廃城となったと思われるが、詳細は不明である。


       <手記>
           うだつの町並みで知られる卯之町から、肱川を挟んだ対岸の峰が黒瀬城跡です。西園寺
          氏の旧居城である松葉城とも、指呼の間に向かい合っています。南東麓の宇和運動公園
          陸上競技場の南西隅と北隅付近にそれぞれ登城口があり、主城域をぐるっと1周して下りる
          ことができます。どちらからでも登れるのですが、行きは南西隅からが絶対におすすめです。
          北隅のルートは重機道と人の道が何度も交差して分かりにくく、遠回りです。ただし、御城印
          が欲しい人は北隅の登城口にあるので見逃さないように注意しましょう。
           南西隅からのルートは主城域背後の尾根筋に出て、2条の堀切を経て一の郭に至ります。
          一の郭は面積が広いものの細長く、標識も前方と後方の2か所に用意されています。一番の
          特徴は、北側下の土塁を伴ったやはり細長い区画でしょう。現地の標識ではこれを帯曲輪と
          し、『日本城郭大系』では犬走りとしています。土塁を伴っている以上、犬走りとは異なると
          思いますが、帯曲輪とするにも土塁と本丸切岸に挟まれた底部の削平が甘く、個人的には
          むしろ横堀と見るべきではないかと考えています。
           一の郭の下には、横堀と繋がる付郭があり、その下が二の郭とされています。二の郭は、
          北西縁にだけ土塁が残っているのが特徴です。二の郭の下には井戸跡を伴った腰曲輪が
          あり、その先が三の郭とされています。三の郭は一の郭に次いで広く、その先端には土塁が
          残っています。
           三の郭の下にももう1つ曲輪があり、今は四阿の建つ展望台となっています。ここからは、
          向かい側の松葉城がよく見えます。この曲輪の南東隅から下りるのですが、前述のとおり
          分岐点が多く、迷いやすいので充分に注意してください。運動場のある南東麓に下りるのだ
          という方向感覚を持ち続けることが大切です。
           黒瀬城と松葉城については、その移転理由が大きな論点となっています。私見については
          松葉城の項に記していますので、そちらを参照ください。黒瀬城の縄張り上の特徴は、北側
          の防備が重視されている点にあります。技巧性から見て、おそらく最終的には公広の時代
          に改修されているものとみられますが、これは西園寺氏の最終的な脅威が北にあったことを
          示しているといえるでしょう。一条氏や大友氏の侵攻ルートは南からと推察され、宇都宮氏を
          滅ぼした毛利氏との関係は悪くなかったとみられることから、個人的には長宗我部氏に降伏
          して以降に完成された縄張りなのかな、と感じています。

 松葉城から黒瀬城を望む(画面中央)。
運動場南西隅の登城口。 
 主城域背後1条目の堀切。
2条目の堀切。 
 一の郭後方部のようす。
前方部のようす。 
 一の郭北側の横堀(帯曲輪)。
横堀の西側付け根。 
 一の郭先端下の付郭。
横堀と付郭のあいだ。虎口跡か。 
 一の郭南側の帯曲輪。
二の郭。 
 二の郭北西縁の土塁。
二の郭下の井戸跡。 
 三の郭。
三の郭にある「水溜の池」。 
 三の郭先端の土塁。
主城域最先端の曲輪。 
右手奥に松葉城跡が見えます。 
 運動公園から見上げた黒瀬城跡。


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