<沿革>
信濃善光寺平を巡って上杉謙信と争っていた武田信玄によって、永禄三年(1560)に築かれた。一説に
山本勘助が縄張りをしたともいわれるが、勘助についてはその実在が確認できず、できたとしてもさほどの
重職にはなかったとみられているため、伝説の域を出ない。
城将には重臣の高坂昌信が選ばれ、川中島の合戦に際しては信玄も在城した。上杉謙信が陣を張った
妻女山は城の南側に位置している(近年異説有)。
武田氏滅亡後、安土桃山時代から江戸時代初期にかけては、森長可、田丸直昌、森忠政、松平忠輝、
松平忠昌、酒井忠勝と目まぐるしく城主が替わった。元和八年(1622)、真田信之が上田城より入封して
以降、明治維新まで真田氏の居城として続いた。
忠政の頃に石塁や二の丸、三の丸が整備され近世城郭としての形態が整えられた。また、それに伴い
城名も武田氏時代の海津城から待城、松城と改められ、正徳元年(1711)から現在の松代と書かれるよう
になった。
<手記>
三方を低山に囲まれ、唯一開けた北西を千曲川が流れる要衝に築かれていることが分かります。近年、
発掘調査を基にした本格的な復興事業により門や塀、橋などの建造物が復原され、城内も丁寧に整備
されました。
もともと際立つ建物のない城だったため、新しくなってもこじんまりとしているのですが、私のような城郭
愛好家にとってはすこぶる安心できる状態に復興されています。それだけに、開発の中で本丸と二の丸
の3分の2ほどを残して城地が削られているのは、仕方ないとはいえ残念です。
松代の素晴らしいのは、復興が城だけでなく町全体を取り込んで行われていることです。武家屋敷から
から町内の通りに町並みと、いたることろ江戸風味に整備され、計画地域内の普通の民家さえわざわざ
棟門を新築しているほどです。
復興計画についても、発掘調査に基づいて再建した後に当時の絵図面が隣市で発見され、照会して
みたら、設計までぴったり同じでほっとしたという逸話(地元の方に軽い打ち明け話として聞いたものです
が)もあるほどきちんと練られているようです。
城郭ファンに限らず、善光寺平周辺の旅行で宿をとるにはとても良い町だと思いました。
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