上田城(うえだ) | |
別称 : 尼ヶ淵城、伊勢崎城、小泉氏館 | |
分類 : 平城 | |
築城者: 真田昌幸 | |
遺構 : 櫓、門、石垣、堀、土塁など | |
交通 : しなの鉄道/上田交通/長野新幹線上田駅徒歩10分 | |
<沿革> 天正十一年(1583)に真田昌幸によって築城が開始されたとみられている。同年四月の 上杉景勝書状には、真田氏が海士渕(あまがふち)を取り立てたので追い払うべきである との内容が記されている。それまでの真田氏の本拠は少し山側に入った真田氏館ないし 戸石城にあり、上田築城は真田郷から上田平への真田氏の進出を意味していた。時は 本能寺の変の翌年。空白地帯となった信州をめぐって、徳川氏や北条氏、上杉氏が睨み 合っていたころであり、真田氏はその間を縫って勢力拡大を図っていた。もともと上田城が 築かれた地には土豪小泉氏の城館があったとされ、近世上田城の絵図にも小泉曲輪と 呼ばれる曲輪が描かれているが、詳細は不明である。 真田氏は当初北条氏に属していたが、後に徳川氏に転じた。上田築城に先立つ天正 十年(1582)十月に徳川氏と北条氏は和議を結んだが、その際に北条氏が獲得した佐久 郡と徳川氏に属する真田氏の沼田領を交換するという案が出された。沼田領は真田氏が 武田氏の下で獲得した領土であるため、昌幸はこの案に反発した。 天正十三年(1585)、徳川家康から取り決めの履行を要求されると、昌幸は拒絶して 上杉景勝と結んだ。これに対し、家康は同年八月に鳥居元忠・大久保忠世らに7千の兵を 与えて上田城に向かわせた。このとき城はまだ完成しておらず、真田氏の兵力は2千人弱 程度であったといわれる。第一次上田合戦と呼ばれるこの戦いでは、徳川勢は真田軍を 追い立てながら城内へ突入したが、これは真田軍のおびき出しであり、徳川軍が二の丸 に取りついたところで一斉反撃に転じ、逆に徳川軍が混乱しながら撤退した。城下町には あらかじめ虎落(もがり)や逆茂木が並べられてあったため、徳川軍は退路を阻まれて多く の死傷者を出した。さらに、戸石城から昌幸の長男信幸の兵も追撃に加わり、徳川勢は 神川でも多くの溺死者を出しながら、ほうほうの体で退却した。徳川方の死者は、信幸の 書状によれば1300人、『三河物語』によれば300人とされる。この戦いには上杉勢も後詰 に来ていたが、実際には真田氏がほぼ独力で勝利を収めたといえる。 上田城は同年中に完成したとみられている。上杉氏が豊臣氏に臣従すると、真田氏も これに従い、豊臣大名として認知されるようになった。初期の上田城の規模や縄張りに ついては定かでないが、主城域の基本的な構造は後世とそれほど変わらないものとみら れている。本丸北西の堀底からは金箔瓦が見つかっており、歴史群像シリーズ『戦国の 城』では、真田氏時代に天守建築が存在した可能性を指摘している。 慶長五年(1600)、関ヶ原の戦いにおける局地戦の1つとして、第二次上田合戦が発生 した。真田氏は本多忠勝の娘婿となっていた信之(信幸から改名)が東軍に、昌幸と次男 信繁(幸村)が西軍につき、親族で東西に分かれた。中山道を西進する徳川秀忠率いる 徳川別動隊3万8千余は、小諸城に入ると上田城の真田父子に開城勧告の使者を送った。 昌幸は口実を設けて返答を数日遅らせ、しかる後「籠城の準備が整ったので一戦仕ろう」 と宣戦した。激怒した秀忠は上田城攻撃を下知したが、第一次合戦の苦い思い出のある 老臣たちはこれに反対した。しかし、結局秀忠はじめ若い世代の武将たちに押し切られ、 上田城の攻撃が始まった。 九月八日、牧野康成の手勢が上田城下で刈田狼藉を行うと、真田勢が城内から撃って 出てきた。徳川軍が迎え撃つと、真田勢はあっさり城へ向かって敗走した。勢いに乗って 城の大手に取りつくと、城内から突如一斉反撃の銃声が轟き、混乱に陥った徳川軍は 統率を失い、本陣めがけてんでに壊走した。そこを信繁の伏兵が脇を襲い、あらかじめ 堰き止めてあった神川の堤を切ったために、多くの徳川勢が討ち取られ溺死した。秀忠も、 家臣の馬に乗って小諸に逃げ帰るというほどの真田方の圧勝であった。秀忠は上田攻略 を諦めて抑えの兵を残し、西上を急ぐこととした。しかし、結局関ヶ原本戦には間に合わず、 家康は数日間秀忠に面会を許さないほど激怒した。第二次上田合戦は戦術・戦略双方の 面で、昌幸の勝利であった。 しかし、西軍は関ヶ原で敗れ、昌幸と信繁は九度山へ追放された。上田城は徳川氏に よって接収され、城番となった諏訪氏によって破却された。まもなく昌幸の旧領は信之に 与えられたが、信之は沼田城を居城とした。元和元年(1616)、信之は上田城へ移り、 上田藩が成立した。同八年(1622)、信之は松代へ転封となり、代わって小諸城の仙石 忠政が6万石で入封した。この領地替えは、上田に真田氏を置きたくない秀忠の意向に よるとも、忠政が願い出たものともいわれる。信之はこの裁定に不服で、上田藩の統治 資料を焼き捨て、城内の庭木などを持ち去ったといわれる。 忠政は、寛永三年(1626)から上田城の改修工事を行い、今日の縄張りを完成させた。 忠政の曾孫で3代藩主政明のとき、仙石氏は出石藩へ転封となり、入れ替わりで出石 から藤井松平忠周が5万8千石で入封した。松平氏は7代を数えて、明治維新を迎えた。 <手記> 上田城は、千曲川支脈の尼ヶ淵の河岸に築かれています。現在尼ヶ淵は埋められて いますが、崖端の城のようすはよく残っています。本丸が真田神社境内、二の丸が上田 城址公園となっています。 縄張りは上田合戦の行われた真田氏時代と変わらないといわれていますが、遺構は 仙石氏時代ないし松平氏時代のものです。東虎口櫓門北脇には、真田氏が築城の際に 太郎山から運び、松代転封の際にも運び出そうとして動かせなかったという言い伝えを もつ真田石がありますが、上記の経緯を考えれば、真偽のほどは怪しいといえます。 東虎口櫓門と両脇の塀は平成六年(1994)に木造復元されたものですが、その両脇の 2基の櫓は、遊郭に払い下げられて2つつなげた楼閣として使用され、目黒雅叙園に買い 取られたところを昭和初期に市民運動によって買い戻されたという、数奇な運命を辿って います。それぞれ南櫓・北櫓と呼ばれていますが、本丸に7基あった櫓にはとりたてて 名称はなかったようで、現存する西櫓も含めて現代に命名されたものです。 本丸の堀に沿って桜並木が続き、私の訪れた時にはつぼみすらまだでしたが、花の 時期にはさぞや美しかろうと思われます。また、二の丸の東側空堀の底はけやき並木と なっていて、こちらも桜とは異なる閑かな趣を呈しています。遺構だけでなく、市民の憩い の場としても整備された城跡だと感じました。 上田城の大きな特徴のひとつが、大手門脇に縄張りからほとんど浮いてしまった形で 設けられた、御屋形と呼ばれる方形の空間です。信之が上田に移った際に居所として 造営したもので、徳川家に2度も煮え湯を飲ませた上田城内に住むことに対する遠慮が、 よく表れている曲輪です。結局、御屋形は仙石氏が城を再建した後も藩主の居所として 使用され続けました。現在は上田高校となっていますが、東側の堀と土塁、そして表門 と塀が残っています。この表門は、松平忠済のときの寛政二年(1790)に、前年に焼失 した門を再建したものです。 さて、上田城は徳川氏の大軍を2度にわたって撃退していることから、堅城として知ら れています。しかし、私にはどうも上田城がそれほど群を抜いて優れた城というようには 思えません。崖端という選地も、梯郭式の縄張りもごく一般的なものであり、尼ヶ淵の 天険を除けば、「上田城だから撃退できた」というような大きな長所は、とりたててない ようにみえます。2度の上田合戦で真田氏が劇的な勝利を収められたのは、ひとえに 昌幸(ならびに信之・信繁)の采配力と、機を読む能力に起因するのではないかな、と 改めて感じました。 |
|
東虎口櫓門と南櫓(左)・北櫓(右)。 | |
枝垂桜越しの北櫓。 | |
南櫓近望。 冬季以外は内部見学できます。 |
|
東虎口櫓門。 右下に見える巨石が真田石。 |
|
真田井戸。 北へ脱出する抜け道に通じていたとの伝説があります。 |
|
本丸の真田神社。 | |
西櫓。同じ位置に現存し続ける唯一の遺構です。 | |
本丸西側の堀と土塁と桜並木。 | |
同じく本丸北側。 | |
二の丸北側の虎口。 | |
二の丸東側堀底のけやき並木。 | |
御屋形東側。 | |
御屋形表門。 | |
塩田平方面(西方)を望む。 眼下にはかつて尼ヶ淵がありました。 |