プラハ城
( Prague Castle )
 別称  : エッシュ=ザウアー城
 分類  : 山城( Spornburg )
 築城者: ボジヴォイ1世か
 交通  : 地下鉄ないし市電「マロストランスカ」駅徒歩10分
 地図 : (Google マップ


       <沿革>
           プラハ城およびプラハの歴史は古く、伝説なども相まってその起源ははっきりしない。史料上の
          初出は、城内に建設された聖マリア教会に関するもので、築城はプシェミスル朝初代ボヘミア公
          ボジヴォイ1世の時代の885年以前に遡るとみられている。発掘調査などにより、初期のプラハ城
          は現在の城山の東半分くらいの規模で、空堀と木壁に囲まれていたと推測されている。その後、
          10世紀までにはプシェミスル朝の居城として整備されていったものとみられている。
           ブレチスラフ1世治下の1035〜55年に改修が施されたことが記録に残っている。発掘調査では、
          11世紀以降の木塀が見つかってないことから、このときの改修で城壁が石壁に作りかえられた
          ものと推測されている。
           1070年代、ボヘミア王(王位は1代限り)ヴラチスラフ2世は、居城をプラハからヴィシェフラットへ
          遷した。背景にはプラハ司教との対立があったといわれ、プラハ司教座は引き続きプラハ城内に
          置かれた。他方、ヴラチスラフ2世はヴィシェフラットに司教座聖堂参事会を設置して対抗し、両者
          の争いはヴラチスラフ2世の死去まで続いた。
           ソヴェスラフ1世の代の1135年、ヴィシェフラットから再び居城がプラハ城へ遷され、同時に城の
          大改修が行われた。とりわけ、城壁は3mの厚さに築き直され、この改修時に建造された城壁は
          後世に「ローマの壁」ないし「ソヴェスラフの壁」と呼ばれるようになった。
           1303年、大火によって城の大部分が焼け落ちた。1306年にはヴァーツラフ3世が嗣子なく暗殺
          されたことによりプシェミスル朝が滅亡し、プラハ城は一時王宮としての機能を失った。1310年、
          ルクセンブルク家のヨハン(盲目王)がヴァーツラフ3世の妹エリシュカと結婚し、ボヘミア王を継承
          した(現地の読みでは「ヤン」)。だが、ヨハンは神聖ローマ帝国内の皇位争いとルクセンブルク家
          の勢力拡大を目指して戦争に明け暮れ、プラハへは徴税にしかやって来ないとさえいわれた。
           ヨハンの嫡男カールは、1333年に17歳でボヘミアの統治を任され、プラハ城も再建されることに
          なった。1344年にはプラハ城内に聖ヴィート大聖堂が建設され、プラハに大司教が置かれること
          となった。1346年、カールは父ヨハンの戦死によってボヘミア王を継承し(カレル1世)、翌年には
          父王の悲願であった神聖ローマ皇帝に即位した(皇帝としてはカール4世)。カールは、プラハを
          「皇帝の都」として発展させた人物として知られている。彼の時代に、プラハはヨーロッパの文化・
          学問の一大中心地にまで高められた。プラハの拡大により、以前の王城であったヴィシェフラット
          も、プラハの南端の守りとして取り込まれた。
           カールの子ヴェンツェルは旧市街の東端付近に新しく王宮を築いて移った。ボヘミア王となった
          ヤギェウォ家のウラースロー2世は、フス戦争で荒廃したプラハ城を1485年に再建した。しかし、
          ウラースロー2世自身は1490年にハンガリー王にも即位して以降、プラハへ戻ることはなかった。
           ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝ルドルフ2世は、ウィーンからプラハへ居城を移し、1612年に
          この地で没した。文化人として知られるルドルフ2世のもとで、プラハは再び文化の都として発展
          した。だが、厳格なカトリック教徒でもあったルドルフ2世の時代には各地で宗教対立が先鋭化し、
          1618年にはプラハ城を襲ったプロテスタントの民衆が、国王の派遣した官吏を城の窓から投げ
          落とすという事件(第二次プラハ窓外投擲事件)が発生した。この出来事は三十年戦争の発端と
          いわれ、1620年にはプラハ近郊で白山の戦いが勃発した。この戦いでボヘミアのプロテスタント
          貴族軍は敗れ、ティリー伯ヨハン・セルクラエスの率いるカトリック軍がプラハへ入城した。プラハ
          のプロテスタント勢力は弾圧され、城も町も荒廃した。
           1744年の第二次シュレージエン戦争で、プラハはボヘミアへ電撃的に侵攻したプロイセン軍に
          攻囲され、約2週間の攻防の末に降伏した。だが、プロイセン軍はまもなく兵站の確保に悩まされ、
          オーストリア軍の追撃を受けて撤退した。続く七年戦争中の1757年にも、プラハはプロイセン軍に
          攻囲されたが、この時はオーストリアからの救援軍によって助かっている。
           1753〜75年にかけて、女帝マリア・テレジアによってようやく城が再建された。オーストリア皇帝
          フェルディナント1世(ボヘミア王としてはフェルディナント5世)は、1848年の革命で退位を余儀なく
          されるとプラハ城へ隠退し、1875年に死去した。1918年にチェコ・スロヴァキア共和国が成立すると、
          プラハ城には大統領府が置かれ、王城としての役目を終えた。


       <手記>
           プラハ城は、ブルタバ川(モルダウ)とその支脈に挟まれた細長い丘の上に築かれていて、市街
          とは川を挟んだ対岸にあります。西のハイデルベルクに対する、古城街道の東の終点ともされて
          います。プラハ観光のメインの1つですので、訪れるのも内部を見学するのもそれほど難しくはない
          ですから、私が多くをここで書く必要はないでしょう。
           プラハ城の特徴の1つは、城内に大聖堂があるという点にあると思われます。大聖堂といえば、
          普通は都市の中心にあるものですが、ここでは町の外れの山の上の城の中というきわめて特異な
          場所に、立派な大聖堂が聳えています。このような例は、他には私の知っている限り、マイセンの
          アルブレヒト城があります。どちらもエルベ河畔の丘の上の城なので、エルベ流域の特徴なので
          しょうか。とはいっても、一般の観光客のみなさんには大聖堂の建っている場所が変わっているか
          どうかなど、あまり重要ではないかもしれませんが。
           また、近年の発掘調査により、プラハ城は当初から現在の城の東半分ほどの規模があり、峰の
          付け根を堀切で断ち切った縄張りをしていたことが明らかとなっています。こうした調査結果は城内
          の歴史資料館に展示されています。
           城の北側の谷戸は重要な天然の防御施設ですが、城の西端付近では土橋が設けられています。
          地図でこの橋を確認すると、そこからブルタバ川までが城域ですから、いかに東西に細長い城で
          あるかが実感できます。峰の東端から支脈を挟んだ東側の丘にも近世の稜堡跡があります。
           さらに、広義のプラハ城を考えた場合、南側の谷戸を挟んだ丘に残る、町を囲う三重の城壁跡も
          価値の高い遺構と思います。三重のうちもっとも内側の城壁は技法が古く、中世に端を発するもの
          であると推測されます。蛇足ですが、この城壁の内側にはパリのエッフェル塔を模したといわれる
          鉄塔が聳えています。有料で上からの景色を楽しめるのですが、なんとエッフェル塔と違って徒歩
          で登らなければなりません(笑)。
           観光地としてのプラハ城の見どころの1つは、衛兵の交代式です。王侯がいるわけでもないのに
          プラハ城には衛兵があちこちにいて、正午には彼らの交代式が執り行われます。明らかに観光用
          のデモンストレーションですが、逆に王族のいる国と違ってそこまで物々しくないので気軽に楽しめ
          ます。
           
 城内にそびえる聖ヴィート大聖堂。
城の南端の城門。門脇には衛兵が建っています。 
 城内の宮殿のようす。正面左の建物奥が歴史資料館。
北側の谷の土橋。 
 南側の城壁のようす。
城の東端付近から東の稜堡を望む。 
 城山から旧市街方面を望む。
南側三重市城壁の一番外側の稜堡付近。 
 三重城壁の一番内側の城壁。
おまけ@:衛兵の交代式のようす。 
 おまけA:プラハ城の夜景。


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