箕田館(みだ) | |
別称 : なし | |
分類 : 平城 | |
築城者: 源仕 | |
遺構 : なし | |
交通 : JR高崎線北鴻巣駅徒歩10分 | |
<沿革> 嵯峨源氏源融の孫仕は、武蔵権介として武蔵国へ下向し、任期が切れた後も箕田荘 にとどまった。仕は中央の権力を無視して在地での勢力拡大に努め、延喜十九年(919) には武蔵守高向利春と対立して国府を襲撃した(『扶桑略記』)。 仕の子宛は武勇に優れていたといわれ、『今昔物語集』には武蔵国村岡(熊谷市)を 領していた平良文(村岡五郎)と小競り合いを繰り返したため、荒川を挟んで一騎打ちに 及んだものの決着がつかず、お互い健闘を讃えあうという逸話が載せられている。ただし、 良文については一般的に相模国村岡(藤沢市)の領主とされる。 宛は21歳の若さで世を去り、その年に生まれた嫡子の綱は、仁明源氏の源敦の養子 となり、摂津国渡辺(大阪市中央区)に移り住んだ。綱は渡辺氏を名乗り、いわゆる頼光 四天王として名を馳せた。 箕田館は3代を以って廃されたものとみられているが、『武蔵国風土記稿』の源経基館 の項には、室町時代の扇谷上杉氏家臣に箕田氏があったとある。箕田氏について詳細 は不明であるが、あるいは同氏の館として利用された可能性もあろうかと思われる。 <手記> 現在の氷川八幡神社と満願寺の間付近を殿山と呼び、箕田館はこのあたりにあったと 考えられています。とくに満願寺門前東にある箕田2号墳は、館の北西端附近にあたると されています。 周辺一帯は宅地化が進み、遺構はみられません。八幡神社境内に、江戸時代中期に つくられた箕田源氏を顕彰する箕田碑があります。 |
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氷川八幡神社。 | |
箕田碑。 |
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館跡比定地周辺現況。 |