源経基館(みなもとのつねもと) | |
別称 : 城山 | |
分類 : 平城 | |
築城者: 源経基か | |
遺構 : 堀、土塁 | |
交通 : JR高崎線鴻巣駅徒歩20分 | |
<沿革> 清和源氏の祖となった源経基の居址と伝わる。経基は清和天皇の六男貞純親王の子で、 承平八年(938)に武蔵介に任じられた。現地に赴任した経基は、着任してすぐに武蔵権守 の興世王とともに、租税や貢物の収奪を行おうとした。しかし、足立郡司および国衙判官代 の武蔵武芝が郡内への進入を拒否したため、2人は武芝の領内へ出兵して狼藉を働いた。 これに対し、武芝は下総の平将門を頼り、将門が手勢を率いてやってくると、2人は妻子を 連れて比企郡「狭服山(さふくやま/さやきやま)」に登り、立て籠もったとされる(『将門記』)。 このときの将門の目的はあくまで仲介であり、ほどなく興世王は下山して、武蔵国府で武芝 と会談・和解した。 経基はなおも籠もっていたが、武芝の兵が経基の居所を急襲した。慌てた経基は京へと 逃げ帰り、武芝と将門、そして興世王が謀反を企てていると報告した。このときは讒言として 退けられたが、翌天慶二年(939)に平将門の乱が勃発すると、逆に賞されることになった。 当館を経基館跡とする見解では、前出の狭服山がここに相当するとされる。ただし、古来 議論が紛々としており、確証は得られていない。 <手記> 「伝源経基館跡」として県史跡に指定されている館跡は、県立鴻巣高校の南西に隣接して います。校庭を削る形でとても良好に保存されており、県指定史跡だからか、清和源氏の祖 として地元で大切にされてきたのか、普通なら学校の敷地に取り込まれて消滅しているよう な場所にあります。西側の道路沿いに説明板が設置されていますが、車の場合は東側の 小道を分け入ると、館の南東隅前に駐車できるスペースがあるのでこちらがおすすめです。 館は西に荒川の河川敷が広がる崖端にありますが、高低差はそれほどありません。今日 の荒川は江戸時代に付け替えられたもので、当時は和田吉野川が流れていたとみられ、 低湿地であったことには変わりないと考えられています。西を除く三方に堀と土塁が巡り、 南東は隅欠けに折れ、北西は櫓台状に膨らんでいるのも大きな特徴です。西辺は緩やか な傾斜となっていて、一見すると後世に土塁が切り崩されたかのように思われます。ただ、 発掘調査の結果では西側の低湿地は今より底が深く、もとから土塁がなくても十分に防御 できていたものと推定されています。 立派な堀と土塁に比べて、館の内部はそれほど広いとはいえません。この点については、 現地説明板でも「伝えられるとおりこの館跡が経基のものだったならば、当時の清和源氏 の勢力の実態をこの規模が反映しているといえよう。」として、暗に元皇族の居館にしては 小さすぎるとの感を呈しています。 規模もさることながら、隅欠けの折れや櫓台状の土塁といった造作は、さすがに10世紀の 城館の遺構とは思えません。経基が武蔵にいた期間はごく限られており、小規模とはいえ これだけ整った城館を、赴任してから逃げ帰るまでの短期に仕上げる余裕があったのかと いうと、かなり疑問です。 狭服山についても、当館は「山に登る」というほどのところではありませんし、吉見郡には 西へ行けばもっとも山らしい山はいくらでもあります。そもそもここから北西に2km少々の ところには、武蔵守を務めた源仕の箕田館があります。箕田源氏の本拠の目の前で籠城 を決め込んだり、囲まれて逃げだすというようなことが容易に起こり得るものか、個人的に 腑に落ちません。 私見としては、この館は残念ながら源経基とは無関係ではないかと考えています。規模 と構造からみれば、少なくとも現在の遺構は室町時代以降のものとするのが妥当だろうと 思われます。『武蔵国風土記稿』の源経基館の項には扇谷上杉氏家臣に箕田氏があった とあり、あるいはこのくらいの身分だとちょうどよいのではないかな…とも感じました。 |
|
南東隅の標柱と堀、よよび土塁。 この脇に駐車できるスペースがあります。 |
|
南東の隅欠けの土塁と堀。 | |
館内のようす。 | |
北西の櫓台状に膨らんだ土塁。 | |
西辺の緩やかな斜面。 | |
西辺道路脇の説明板。 |