鷹尾山城(たかおやま)
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: 別所氏
 遺構  : 曲輪、土塁、堀
 交通  : 三木城跡から徒歩10分


       <沿革>
           別所氏の居城・三木城の支城であるが、いつごろ築かれたかは不明である。
           天正六年(1578)に始まる三木合戦において、別所長治の弟友之が守備したとされる。補給の
          望みが断たれ、俗に「三木の干殺し」と呼ばれる状況に陥ると、同八年(1580)一月六日にまず
          宮ノ上要害が陥落し、十一日には鷹尾山城も攻め落とされた。
           同月十四日、鷹尾山城に入った羽柴秀吉は城内に降伏勧告を行い、長治と友之はこれを受諾。
          城兵の助命を条件に自害して果てた。


       <手記>
           三木城のすぐ裏手の小山に設けられた支砦で、三木勤労者体育センターの駐車場奥に説明板
          と入口があります。主郭の南東に空堀を、南西辺には横堀を設けており、主郭土塁や横堀に伴う
          土塁も良好に残されています。南東の空堀外側も土塁に見えるのですが、これは体育センターの
          造成によって法面がめくれて見えているもののようで、当時土塁があったかは分かりません。
           三木城側には腰曲輪があり、その脇には連絡路のような浅い掘り込み地形が認められます。
          規模は大きいとはいえませんが、造作はしっかりとしており、三木城と連携してその弱点を補って
          いたものと推察されます。
           なにより、今では城跡らしさがほとんど残っていない三木城に代わって、遺構を見られる満足感
          を与えてくれる貴重な存在となっています。

 三木城側から鷹尾山城跡を望む。
体育センター駐車場奥の説明板。 
 南東辺の堀切。
屈曲した主郭の土塁。 
 土塁の内側。
南西辺の横堀を主郭土塁上から見下ろす。 
 南西辺の横堀。
北西辺の帯曲輪。 
 三木城側の腰曲輪。
三木城への連絡路跡か。 


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