小田原城(おだわら) | |
別称 : なし | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 大森頼春か | |
遺構 : 曲輪、石垣、堀、虎口 | |
交通 : JR東海道線/小田急線ほか小田原駅徒歩10分 | |
<沿革> 平安時代末期から鎌倉時代にかけて、土肥氏ないしその一族の小早川氏が居館を営んで いたとする伝承があるが、確証はない。 応永二十四年(1417)、前年に起きた上杉禅秀の乱での戦功により、駿河国駿東郡の大身 領主大森頼春が、鎌倉公方足利持氏から相模国下足柄郡に所領を与えられた。小田原城は 頼春によって新規に、あるいは土肥氏の館跡に築かれた。同二十九年(1422)、頼春は出家 して、家督を子の氏頼に譲った。氏頼は、永享十年(1438)に勃発した永享の乱を機に扇谷 上杉氏に転じ、とくに太田道灌の暗殺後には三浦氏と並ぶ重臣として存在感を発揮した。 氏頼の跡を継いだ次男の藤頼は、伊豆の新興領主伊勢宗瑞(北条早雲)に小田原城を奪わ れた。従来の伝承では、明応四年(1495)に宗瑞勢が鹿狩りの勢子に化けて奇襲したものと されてきた。しかし、翌五年(1496)時点で大森氏と伊勢氏が同じ陣営で戦っていたことを示す 文書が見つかっていることから、実際に奪取した年はこれ以降とする説が有力視されている。 宗瑞はこの後の生涯をかけて相模国を平定したが、自身は終生伊豆国の韮山城を居城とし、 小田原には嫡男氏綱を置いていた。 永禄三年(1560)、越後の長尾景虎(上杉謙信)が関東への出兵を開始し、翌四年(1561) 二月には鎌倉の鶴岡八幡宮に達した。三月下旬には10万前後ともいわれる大軍で小田原城 を囲んだ。しかし、北条氏康以下城方の守りは固く、北信濃を巡って争う武田信玄の動向や、 長陣に対する関東諸将の不満などを背景に、景虎は翌閏三月上旬に囲みを解いて鎌倉に 撤退した。 永禄十一年(1568)、甲相駿三国同盟を破って信玄が駿河に侵攻したことから、北条氏は 武田氏と手を切り、謙信と越相同盟を結んだ。翌十二年(1569)八月に、信玄は2万の兵を 率いて北条領へ攻め入り、十月一日に小田原城を包囲した。このときも、北条勢は徹底した 籠城策を採り、信玄もあえて力攻めはせず、同月五日には城下を放火しただけで退却した。 退路の途中の三増峠には、北条氏照・氏邦の兵2万が待ち構えていて、小田原から追撃に 転じた北条氏政と挟撃する構えを見せていたが、氏政勢の到着が遅れたために帰国を許す こととなった(三増峠の戦い)。 天正十八年(1590)、北条氏邦の家臣猪俣邦憲が、豊臣秀吉の裁定によって真田氏領と なっていた名胡桃城を攻め取ったことを機に、小田原の役が始まった。小田原城の有名な 総構えは、武田氏の包囲以後に原型が作られ、豊臣氏との間で緊張が高まるなかで完成 されていったとみられているが、詳しい経緯は明らかでない。三月末に山中城を1日で落城 させた豊臣勢は、四月三日には先鋒部隊を小田原に到達させた。 秀吉もまた小田原城を力攻めすることはなく、諸将に包囲陣を構築させるとともに、早川を 挟んだ南東に石垣山城を築かせた。北条領内の主だった拠点城が次々と陥落し、上杉氏 や武田氏のときと異なり、豊臣軍に兵糧の欠乏や士気の低下が起きる様子も見られない ことから、逆に城中から離反者が現れはじめた。六月半ばごろに石垣山城が完成したこと で城内の士気はさらに挫かれ、北条氏直は七月五日に降伏を申し入れた。同月十一日に 城が明け渡され、北条氏は滅亡した。 役後、旧北条領には徳川家康が入り、家康は居城として江戸城を指定された。小田原城 には、重臣大久保忠世が4万5千石で入城した。文禄三年(1594)に忠世が没すると、長子 忠隣が、すでに拝領していた羽生城2万石と合わせて6万5千石で小田原城主を継いだ。 忠隣は、2代将軍徳川秀忠の側近として権勢を振るったが、慶長十八年(1613)の大久保 長安事件を機に家康・秀忠父子の寵を失い、翌十九年(1614)に突如として改易となった。 小田原城は本丸を除いて破却され、天領となって城番が置かれた。 元和五年(1619)、大多喜藩主阿部正次が5万石で小田原に入り、小田原藩が復興した。 しかし、同九年(1623)に岩槻藩へ転封となったため、再び天領となった。 寛永九年(1632)、3代将軍家光の乳母春日局の実子稲葉正勝が、8万5千石で真岡蕃 から小田原へ転封となり、再度小田原藩が成立した。正勝の孫正征は、貞享二年(1685) に越後高田へ移され、翌三年(1686)に大久保忠朝が10万3千石で小田原藩主となった。 忠朝は忠隣の孫にあたり、72年ぶりの旧領復帰となった。以後、大久保家が10代を数え、 明治維新を迎えた。 <手記> 関東の雄、北条氏五代の居城として(正確には早雲を除く4代ですが)、都心や箱根に 近いこともあって、小田原城は観光地としても人気です。1997年に銅門が、2009年には 馬出門が復元され、さらに2016年には天守閣の修復工事が完了したこともあり、首都圏 でもとくにお城の雰囲気が味わるスポットとなっています。 線路の東側の近世城郭部は、当然ながら徳川時代に完成されたもので、銅門や馬屋 曲輪の一帯に、徳川氏の特徴とされる出枡形の縄張りを見て取ることができます。 他方で、近年は北条時代の遺構にかなり注目が集まっているようです。本丸から線路 を挟んだ西側には、八幡山古郭東曲輪という戦国期の曲輪跡が一般に開放されていて、 目立った遺構はない平坦地ながら、天守閣越しに相模灘を望むという美しい構図が拝め ます。その背後の丘上の、県立小田原高校南東隅には、北条時代の本丸の土塁が高々 と残っています。高校の脇を通ってさらに西上し、毒榎平を抜けると、北条期遺構のハイ ライトのひとつ小峰御鐘之台大堀切が現れます。東・中・西の3条の巨大な堀切で尾根を 断ち切っていて、中堀はクランク状の折れを持ち、東堀と中堀はH字状に横方向の堀で 結ばれています。さらに西進した先の御鐘之台は、総構えも含めた小田原城の西端に あたるところで、現在は畑地となっていますが、遠巻きに堀のラインを確認することができ ます。 私は石垣山から降りて早川を渡り、板橋城址を経て、この御鐘之台まで歩いてきたの ですが、その途中には早川口遺構があります。邸宅の庭園に取り込まれていたということ から改変はあるらしいのですが、やはりここにも土塁とその外側の堀跡の暗渠が残って います。 大堀切中堀の北端から畑の間の生活道路を歩いていくと、今度は「稲荷森」と「山ノ神 堀切」という2つの大きな総構え遺構が立て続けに見られます。どちらも地権者の好意に より近年新たに整備されたところという、たいへん有難い遺構です。いずれもかなり巨大 な堀と土塁で、かつてはこれが10km近くにわたって小田原城を囲繞していたのかと思う と、興奮を隠すことができません。 城の東端は、山王川に面した山王曲輪とされています。曲輪名は郭内にあった山王 神社にちなむもので、境内には星月夜ノ井なる風流な史跡も再現されています。神社の 西、新玉小学校の東には、早川口遺構と並ぶ平地部の貴重な遺構である蓮上院土塁 があります。北条時代の総構えの名残とされ、やはり中世らしさを感じることのできる スポットとなっています。 余談ですが、実質的な築城者とされる大森頼春は、1422年に出家して家督を譲ったと されています。特段の理由がなければ、このとき嗣子の氏頼は元服していたはずです。 氏頼の長男実頼は、1483年ないし1486年に若くして没したとされ、年齢は不明ながら、 素直に考えれば氏頼はかなり高齢で最初の子をもうけていることになります。さらに、 没年から計算すると頼春と氏頼はかなり高齢で死去したことになり、ありえないことでは ないものの、不自然に感じます。あるいは頼春と氏頼の間に1代抜けていると考えると、 すっきりするように思います。 |
|
天守閣。「閣」と付けるのは、修復工事を経てなお、 当時の姿とは明らかに異なるままだから。 |
|
常盤木門(復元)。 | |
常盤木門下で検出された本丸東堀跡。 | |
銅門(あかがねもん/復元)。 | |
馬出門(復元)。 | |
二の丸東辺の隅櫓と学橋。 櫓は石垣の高さと形状が異なり、学橋はもともと無いもの。 |
|
小田原高校北東隅の三味線堀跡。 本丸土塁への通路口でもあります。 |
|
本丸土塁。 | |
八幡山古郭東曲輪。 | |
八幡山古郭東曲輪から天守閣越しに相模灘を望む。 | |
小峰御鐘之台大堀切東堀。 | |
東堀に付随する土塁。 | |
東堀と中堀を結ぶ横向きの堀。 | |
小峰御鐘之台大堀切中堀のクランク部。 | |
小峰御鐘之台大堀切西堀北端付近。 | |
小峰御鐘之台大堀切西堀南端付近。 | |
御鐘之台のようす。 | |
御鐘之台からの眺望。 眼下の畑地に堀のラインが見えます。 |
|
総構稲荷森。 | |
総構山ノ神堀切。 | |
山ノ神堀切外縁の堀と土塁。 | |
早川口遺構。 | |
お堀端通り交差点北、幸田門脇の三の丸土塁。 | |
三の丸土塁東端、小田原郵便局裏の石垣跡。 | |
蓮上院土塁 | |
山王神社の星月夜ノ井。 |