水口城(みなくち)
 別称  : 碧水城、水口御殿、水口御茶屋
 分類  : 平城
 築城者: 徳川家光
 遺構  : 曲輪、石垣、堀
 交通  : 近江鉄道水口城南駅徒歩1分


       <沿革>
           寛永九年(1632)、将軍徳川家光上洛の際の休息施設である御茶屋の1つとして建設が
          開始された。水口には、元和六年(1620)に家光の妹の和子が入内したときに建てられた
          御茶屋が宿内にあった。にもかかわらず、家光がわざわざ新たな御茶屋の普請を命じた
          背景には、同年に父秀忠が死去し、大御所政治色の払拭を図ろうという思惑があったもの
          と考えられている。
           造営にあたっては小堀遠州政一が作事奉行に任じられ(『日本城郭大系』には、遠州の
          次男権十郎(政尹)の名が挙げられているが、1625年生まれの政尹には不可能である)、
          豊臣時代の水口岡山城の石材が転用されたとされる。寛永十一年(1634)、家光は上洛
          の帰途に水口御殿で1泊したが、将軍の上洛はこの後14代家茂まで途絶えた。その間に
          水口藩が成立したため、水口城が「御茶屋」として使用されたのは、これが最初で最後で
          あった。
           家光上洛後は城番が置かれるのみであったが、天和二年(1682)に加藤明友が2万石
          で水口藩を立藩した。水口城は水口藩の藩府として認められたが、加藤氏には将軍家の
          城を預かっているという認識であったらしく、本丸には手を付けず二の丸に陣屋を設けて
          政庁とした。
           明友の子明英の代に加藤家は壬生へ加増転封となり、水口には鳥居忠英が入ったが、
          忠英と明英の甥嘉矩との間で再び領地入れ替えとなり、嘉矩以降加藤氏が9代を数えて
          明治維新を迎えた。


       <手記>
           水口城は、東海道水口宿の西のはずれ付近に位置しています。一応、南側の野洲川原
          方面に向かってやや落ち込む地形にありますが、御茶屋御殿ですので要害性は関係なか
          ろうかと思います。
           水口城の特徴は、徳川氏の築城術の特徴でもある出桝形で、上の地図を見ても分かる
          とおり、本丸東側に凸状の張り出し部があります。現在、ここに橋や塀、門、櫓が建てられ
          ていて、櫓は水口城資料館となっています。ただし、出桝形ですからここに櫓があるのは
          不自然であり、模擬櫓だということです。本丸部分は水口高校のグラウンドとなっていて、
          見る影もありません。かつては本丸四周は水濠と石垣で囲まれていましたが、北東部分の
          堀は駐車場などに転用され、埋められています。石垣に至っては、ほとんどが近江鉄道の
          敷設などに使用されたということで、出桝形と本丸北西隅櫓基壇部のみが残っています。
          北西隅櫓台にしても、上3分の2ほどは後世になって積み直されたもののようです。
           このように、遺構の残存状況や復元・保存のやり方については残念な部分が見受けられ
          るのですが、これでも水口藩が維新まで管理してきたということから、各地の御茶屋のなか
          でもっともよく残っているものであるとはいえるでしょう。歴史的な意味合いとしては、とても
          貴重な遺構ですので、今後の調査や保存に期待したいところです。
           ちなみに、水口城址北東の旧東海道の交差点脇にある「谷野食堂」は、私のイチオシの
          大衆食堂です。オススメは、ご当地グルメ(らしい)「すやき」です。ひとことでいうと、ソース
          を使わない焼きそばですが、詳細はブログ記事にしていますのでこちらをご覧ください。

           
 出桝形の模擬櫓。
出桝形にかかる御成り橋と復元された塀・門・模擬櫓。 
 水口城址碑と御成り橋越しに出桝形を望む。
本丸北西隅櫓台の石垣。 
 本丸南辺の水濠。
出桝形南側の屈曲部分の水濠。 


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