水口岡山城(みなくちおかやま) | |
別称 : 水口城、岡山城、水口古城 | |
分類 : 山城 | |
築城者: 中村一氏 | |
遺構 : 曲輪跡、石垣、土塁、堀、虎口、櫓台 | |
交通 : 近江鉄道水口駅徒歩10分 | |
<沿革> 天正十三年(1585)、甲賀に6万石を与えられた中村一氏によって築かれた。一氏の出自について は不明な点が多いが、有力な説の1つに、甲賀の土豪多喜氏(瀧氏)の出身で、初名を瀧孫平次と いったとするものがある。これが正しければ、一氏は秀吉子飼いの武将のなかで、自立傾向の強い 甲賀を統治するのにうってつけの人物として抜擢されたものと考えられる。 岡山にはもともと大岡寺があったが、築城に際して移転させられ、石材などは普請に転用されたと される。ほかにも、築城にあたっては、三雲城や大溝城から建材が転用されたと伝わる。 天正十八年(1590)の小田原の役の軍功により、一氏は駿府城14万石へ加増転封となり、水口 には増田長盛が入った。文禄四年(1595)には長盛も大和郡山城へ転封となり、代わって長束正家 が5万石で入封した。長束正家の父は水口盛里とされ、居城水口城が攻め落とされたために長束村 へ移り、長束姓を称したと伝わる。この場合の水口城がどこを指すのかは不明である。盛里が逃れ、 正家が誕生した長束村についても、近江説(長束館)と尾張説(長束正家邸)の2つがある。正家は、 慶長2年(1597)に12万石に加増された。 慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いで、正家は水口岡山城を弟直吉に預け、大垣城へ入った。本戦 では南宮山に陣取ったため、吉川広家隊の妨害に遭って参加することができないまま、西軍の壊滅 によって撤退した。東軍の追撃を受けながらも、正家勢は水口岡山城へ帰還できたが、まもなく亀井 茲矩・池田長吉・山岡景友らの軍勢に包囲された。池田らは本領安堵と偽って開城を促し、城から 出てきた正家兄弟を捕縛した。正家兄弟は切腹を余儀なくされ、城内は長吉によって掠奪されたと 伝わる。城も、そのまま廃城となった。 <手記> 水口岡山城ないし水口古城とは、江戸時代に築かれた水口城と区別するための呼称で、当時は、 単に水口城ないし岡山城と呼ばれていたものと思われます。城のあった(大)岡山は、今では古城山 と呼ばれ、眼下に野洲川と東海道水口宿を扼する細長い独立山です。 城へは、古城山の四方八方から登山道が延びているので、適当に山麓をぶらつけば問題なく見つ けられると思います。駐車場は、西麓に無料専用駐車場があります。 水口岡山城は、堀切で隔てた曲輪を横一直線に並べる縄張りを基調としており、西端の広い曲輪 が本丸です。そこから東に二の丸・三の丸と標柱が続いていますが、あくまで伝承と推測によるもの です。山頂部の見どころは、これら曲輪間の堀切と、本丸北面の石垣跡です。この石垣は、本当に ちょっと崩し残したといった感じのもので、廃城時に徹底的に破城されたのであろうことが、うかがえ ます。また、本丸の東西両端には櫓台状の高まりがあり、西側のものが天守跡とみられています。 かつては、天守台も含め、少なくとも本丸は総石垣で固められていたものと考えられています。 本丸の南西山腹の曲輪は、両脇を喰い違い虎口と張り出し竪土塁による虎口で固め、山麓からの 登城路が桝形をくぐって行き着くところであり、大手口であるとみられています。私が訪れたときには この大手桝形を発掘調査しており、石垣などが検出されたようです。大手桝形の一段下東側には、 水の手と呼ばれる広い曲輪があります。ここで、近江特有の狐雨ならぬ狐雪に遭い、雨宿りならぬ 雪宿りをしていたところ、隣り合わせた発掘調査員の方とお話しすることができ、水の手曲輪南面下 の石垣まで案内していただきました。まったくもって不幸中の幸いというか、ラッキーでした。 水口岡山城は、豊臣時代に築かれ、豊臣時代の終焉とともに廃された、豊臣時代の貴重な示相 遺跡であるといえます。発掘調査により、おそらくさまざまな新しい発見があるものと思われ、期待は 尽きません。 |
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古城山遠望。 | |
本丸櫓台。天守跡か。 | |
本丸のようす。 | |
本丸東端の伝天守跡。 | |
本丸北面石垣。 | |
同上。 | |
本丸西側から堀切越しに本丸を望む。 | |
本丸と二の丸の間の堀切。 | |
二の丸のようす。 | |
二の丸と三の丸の間の堀切。 | |
三の丸のようす。 | |
本丸下の大手口とみられる曲輪東側の喰い違い虎口。 | |
大手口とみられる桝形虎口。 | |
水の手と呼ばれる曲輪下の石垣。 | |
本丸西の堀切から続く竪堀。 |