源範頼館(みなもとののりより) | |
別称 : なし | |
分類 : 平城 | |
築城者: 源範頼か | |
遺構 : 堀 | |
交通 : 東武東上線東松山駅または JR高崎線鴻巣駅からバスに乗り、 「久保田」下車徒歩15分 |
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<沿革> 源頼朝の弟で、吉見御所と尊称された源範頼の館跡と伝わる。範頼は遠江国蒲御厨に生まれ、 蒲冠者と呼ばれていたが、頼朝が挙兵するとこれに馳せ参じ、兄の代理の大将として主力軍を 率いた。『吉見観音縁起』には、範頼が稚児僧として吉見観音にあったとあるが、以上の経緯から 吉見を領したのは頼朝に従って以降のことと推察される。 範頼は建久四年(1193)に頼朝の疑いを受けて伊豆の修善寺に幽閉され、殺害された(逃亡説も あり)。範頼の妻(安達盛長女)の祖母にあたる比企尼は、僧籍に入っていた範頼の2人の子範圓 と源昭を引き取り、吉見に住まわせた。範圓の子為頼は吉見氏を称し、御家人として存続した。同氏 が範頼と同じ館に居住していたのか否かは定かでない。 吉見氏の嫡流は、為頼の曽孫尊頼が渋川直頼の養子(渋川義宗)となったこともあり、南北朝期 に断絶した。為頼の次男頼宗の孫氏頼は、能登守護となり能登吉見氏の祖となった。戦国時代に 石見国津和野に割拠した石見吉見氏は、能登吉見氏の庶流とされているが、詳しい系譜は定かで ない。 <手記> 館跡とされる息障院は、もともと北西の吉見観音(安楽寺)の本坊でしたが、明徳年間(1390〜 94)に移されたとされています。安楽寺には範頼が寄進した三重塔があったとされ(兵火で焼失)、 範頼と息障院の間に関連があったこともうかがえます。とはいえ、県史跡には指定されているもの の、ここが範頼の館であるという確証はないようです。 息障院の南辺と西辺には、今も寺院には不要と思われる空堀が見られます。残る北辺と東辺は 水路となっていますが、周囲は四方すべて高低差はなく、要害性はほぼゼロです。もう1つの候補 地として、北300mほどのところに若干要害性のある横見神社(御所陣屋)がありますが、こちらは こちらで武士の居館とするには難があり(詳しくはリンク先を参照)、頼朝の弟クラスの館としては、 やはり息障院の方が可能性は高そうです。 |
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息障院。 | |
境内南辺の空堀。 | |
西辺の空堀。 | |
門前の石碑。 |