御所陣屋(ごしょ) | |
別称 : なし | |
分類 : 平城 | |
築城者: 源範頼または中川八郎左衛門 | |
遺構 : 堀か | |
交通 : 東武東上線東松山駅または JR高崎線鴻巣駅からバスに乗り、 「久保田」下車徒歩20分 |
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<沿革> 源頼朝の弟範頼の館ないし、江戸時代の横見郡代官中川八郎左衛門の陣屋跡とされる。前者に ついては、範頼が吉見を領して吉見御所と呼ばれたことに由来する。『吉見観音縁起』には、範頼が 稚児僧として吉見観音にあったとある。ただし、範頼は遠江国蒲御厨に生まれであり、蒲冠者と呼ば れていたことから、吉見を領したのは挙兵した頼朝のもとへ馳せ参じて以降のことと推察される。 範頼は建久四年(1193)に頼朝の疑いを受けて伊豆の修善寺に幽閉され、殺害された(逃亡説も あり)。範頼の妻(安達盛長女)の祖母にあたる比企尼は、僧籍に入っていた範頼の2人の子範圓 と源昭を引き取り、吉見に住まわせた。範圓の子為頼は吉見氏を称し、御家人として存続した。同氏 が範頼と同じ館に居住していたのか否かは定かでない。 吉見氏の嫡流は、為頼の曽孫尊頼が渋川直頼の養子(渋川義宗)となったこともあり、南北朝期 に断絶した。為頼の次男頼宗の孫氏頼は、能登守護となり能登吉見氏の祖となった。戦国時代に 石見国津和野に割拠した石見吉見氏は、能登吉見氏の庶流とされているが、詳しい系譜は定かで ない。 一方、中川八郎左衛門については今井忠昌の子で、中川昌勝の養子となった人物である。今井・ 中川両家とも、旧武田家臣の家系とされる。着任時期は不明だが、八郎左衛門は寛文八年(1668) から横見郡での検地を行っている。しかし、天和二年(1682)に年貢を滞納したとの廉で切腹を命じ られ、お家も断絶となった。 『新編武蔵風土記稿』の御所村の項には、範頼についての記載はなく、「陣屋蹟」として「当郡ノ 御代官中川八郎左衛門ガ居シ所ナリ(中略)今其蹟スベテ畑トナレリ」とある。 <手記> 「御所」と「陣屋」は似たような意味なので、御所陣屋というと少々違和感がありますが、御所村に あった陣屋という地名由来なので深い含意はないようです。一般に源範頼館とされる息障院の北 に鎮座する横見神社が、御所陣屋跡といわれています。 横見神社は北と西が低まった水田となっていて、かつては低湿地だったものと思われます。境内 は南辺と東辺に空堀があり、四周とは一応隔絶された空間となっています。本殿裏にも土盛りが ありますが、さすがにこれは神社の造作でしょう。 空堀の外側になりますが、境内の南西には小さな古墳があります。ここが中世の館跡なら、物見 として使われたかもしれませんが、とくに手が加えられている様子はありません。本殿の土盛りも、 古墳とする見方があるようです。 このように、城館が築かれたとしてもおかしくはない地勢ではありますが、1つ決定的な疑問点が あります。それは、堀と斜面に囲まれた境内が狭すぎることです。代官所としてはもちろん、平安末 の武士の居館としても、あまりにも狭小です。まして頼朝の弟の館となればなおさらでしょう。 八郎左衛門の陣屋にしても、『記稿』に「スベテ畑トナレリ」とあり、同書に飯玉氷川明神社として 記事のある横見神社境内では条件に合いません。範頼館というのも、吉見御所にちなんで当地が 御所村と名付けられたことからくる類推にすぎないものと思われます。陣屋は付近の別の場所に あったとして、横見神社が城館跡であるとする見方には、やはり留保が必要でしょう。 |
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御所陣屋跡とされる横見神社。 | |
境内南辺の空堀。 | |
同上。 | |
境内北辺の斜面。 | |
境内に隣接する古墳。 |