久須見城(くすみ)
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: 和田氏か
 遺構  : 曲輪、堀、土塁
 交通  : 長良川鉄道郡上八幡駅からバスに乗り、
      「道の駅明宝前」下車徒歩15分


       <沿革>
           鎌倉時代に郡上郡の地頭となった東氏の家臣和田氏によって築かれたと考えられている
          が、和田氏の出自や築城の経緯は定かでない。『明宝村史』によれば、天文八年(1539)に
          隣領の畑佐氏で内紛があり、これに飛騨の三木氏が介入して合戦に及んだとされる。遅く
          ともこのときまでに、久須見城も築かれていたものと思われる。
           永禄二年(1559)、東氏は一族の遠藤盛数の下克上を受けて滅んだ。このとき、盛数に
          属した武士のなかに久須見村和田仁兵衛の名があり、当時の久須美城主とも考えられる。
           永禄十二年(1569)、飛騨国桜洞城の三木自綱が、坂本峠を越えて遠藤領へ侵攻した。
          畑佐氏は三木氏についたため、盛数の子慶隆は、遠藤左近右衛門らを久須見に派遣して
          迎撃させた。久須見城で戦闘があったかは不明だが、遠藤勢は激戦の末に三木氏を撃退
          したとされる。その後の久須見城の動静については詳らかでない。


       <手記>
           明宝ハムで有名な旧明宝村の道の駅向かいにある峰が久須見城跡です。集落内の道を
          登っていくと、水道施設の向かいの獣除けフェンスに説明板が掲げられていて、その脇から
          登山道があります。
           山頂の主郭の前方に堀切が1条と竪堀が1条、そして後方に少し距離を開けて堀切が2条
          設けられています。主郭は上下2段となっていて、その西側下にもう1つ帯曲輪が付属して
          います。堀切の向こう側は前後とも曲輪形成が成されているようには見受けられず、とくに
          後方はほぼ自然地形です。現地説明板の縄張り図には、ずっと曲輪が連なっているように
          描かれていますが、さすがにこれは立派に過ぎるように感じました。
           このように規模は大きいとはいえないものの、しっかりした防御施設を伴った実践的な城と
          いえるでしょう。永禄十二年の三木氏の侵攻を受けて改修され、その姿を留めているものと
          みられます。
           ちなみに、麓には和田姓のお宅があり、城主和田氏との関連が考えられます。向かいの
          道の駅にはその和田さんが収穫された餅米が売られていたので、これもご縁と1袋購入しま
          した。

           
 道の駅から久須見城山を望む。
登山口。 
 主郭南側の二重竪堀。
 そのうち1条は上で堀切になっています。
主郭前方の堀切。 
 主郭のようす。
主郭下段のようす。 
 主郭西側の帯曲輪。
主郭後方1条目の堀切。 
 同じく2条目の堀切。
おまけ:道の駅にある梶原景季と名馬磨墨の像。 


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