島屋敷(しま)
 別称  : 金子館、金子氏館、柴田陣屋
 分類  : 平城
 築城者: 金子時光か
 遺構  : なし
 交通  : 京王電鉄仙川駅またはJR中央線三鷹駅
      からバスに乗り、「新川団地中央」下車


       <沿革>
           『新編武蔵国風土記稿』上仙川村の項に、「島屋敷」として記載がある。それによると、
          金子時光なる人物の居館があり、天正年間(1573〜92)のころまで時光の孫金子弾正
          が住していたと伝えられる。時光は武蔵七党の1つ村山党の金子氏庶流とみられるが、
          系譜は定かでない。また、京王電鉄つつじヶ丘駅はもともと金子駅という名称で、これは
          かつての金子村にちなんでいる。金子の地名も、金子氏が居住していたことに由来する
          とされる。『日本城郭大系』では、金子氏の館とする伝承を、隣接する金子村からの敷衍
          であるとして懐疑的に論じている。
           慶長二十年(1615)の大坂夏の陣で武功を挙げた徳川家臣の柴田三左衛門勝重は、
          多摩郡などで加増を受け、2500石余を領して上仙川村に陣屋を建設した。島屋敷とは、
          柴田家の陣屋が仙川の流れに囲まれて、島状になっていたことにちなむ呼称である。
          勝重の父勝政は、織田信長の筆頭家老であった柴田勝家の姉の子で、勝家の養子と
          なっていた。したがって、勝重は血縁上は勝家の大甥であり、系譜上は孫にあたる。
           元禄十一年(1698)、勝重の孫勝門は3500石余に加増されたうえ、所領を三河国へ
          移された。これにより島屋敷の陣屋は廃され、『記稿』が編纂された文化・文政期には、
          屋敷跡は陸田になっていたとされる。


       <手記>
           島屋敷跡はURの団地となっていて、遺構はありません。現在の団地の名称は「新川・
          島屋敷通り」というようで、名称の一部としては残っています。上の地図に示した場所に
          説明板があり、発掘調査により近世の陣屋跡に加え、中世の建物跡も検出されている
          そうです。
           島状の地形だったということですが、仙川に対して高低差はあまりなく、要害性という
          面ではさほど恃むには値しないと思われます。その点、川向こう目の前には天神山城
          あり、なんらかの関係があったとも考えられます。
 
           
 団地内の説明板。
仙川沿いから説明板方面を望む。 


BACK