宮野城(みやの) | |
別称 : なし | |
分類 : 平城 | |
築城者: 山内上杉氏か | |
遺構 : 堀、土塁 | |
交通 : JR上越線後閑駅また上越新幹線上毛高原駅よりバス 「猿ヶ京関所前」バス停下車徒歩1分 |
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<沿革> 永正七年(1510)、関東管領上杉憲房と、長尾景春の軍勢が宮野で合戦に及び、 憲房勢が敗れている。『日本城郭大系』では、このときすでに宮野城があったもの とし、築城者は憲房の養父顕定と推測している。 永禄三年(1560)、越後の長尾景虎が関東へ侵入したが、宮野は三国峠越えの 中継地点として重要な位置にあるため、このときまでには城が築かれていたものと 考えられる。ちなみに、現在の猿ヶ京の地名は、宮野に宿泊した景虎が命名した ものとされているが、その語源については諸説あり定まっていない。 天正二年(1572)、吾妻郡尻高城主の尻高景家が真田氏に攻め滅ぼされると、 時期は不明だが、景家の子左馬介義隆が上杉氏を頼って宮野城に入った。 天正六年(1578)に御館の乱が勃発すると、宮野城は上杉景虎方の沼田城代 の1人河田重親に攻められた。このときの宮野城主が義隆であったかは定かで ないが、一度は寄せ手を押し返したものの、北条氏の主力が加わるに及んで落城 した。 天正八年(1580)四月、宮野城は真田昌幸の将で沼田城代となった海野輝幸に よって攻められた。このとき、武田氏と上杉氏は同盟関係にあったことから、義隆は 北条側に転じていたものと推測される。義隆は奮戦したものの衆寡敵せず、落去 した先で進退に窮して自害した。 天正十年(1582)に武田氏が織田信長に滅ぼされると、上杉氏が宮野城を奪取 したものとみられる。同年に沼田に進軍した信長麾下の滝川一益の甥滝川益氏 が宮野城を攻めたが、失敗している。 その後の宮野城については不明であるが、遅くとも真田氏・上杉氏双方が豊臣 秀吉に降り、景勝が上野国内の所領を放棄させられた時点で、廃城となったもの と推測される。 <手記> 宮野城は、赤谷湖に突き出した舌状地形上に位置しています。付け根側には、 旧三国街道猿ヶ京関所や、猿ヶ京温泉街があります。 かくいう宮野城址自体も、主郭が温泉宿泊施設となっています。駐車場に説明 板が設置され、ホテル名にも「城」の字が入っているので、城跡であるということ は強く認識されているようです。 本丸の周囲には、土塁と堀が比較的良好に残っています。本丸の北には二の 丸があり、堀は埋められているものの、土塁の一部が残されています。ただし、 この土塁は堀に対して直角に設けられており、旧縄張り図を見ると、武者隠しの ような小区画が形成されていたようです。二の丸の東端には、堀をまたいで学校 関連の宿泊施設があり、その崖側にはわずかながら堀跡と思われる痕跡がみら れます。 赤谷湖は人造のダム湖であり、かつては城の南東麓で西川と赤谷川が合流し ていたものと思われます。麓からみればそれなりの高所にある城だったのでしょう 猿ヶ京関所が城と地続きのところにあったことから、当時の三国街道もほぼ同じ ルートを取っていたものと推測されます。したがって、宮野城は高低差を利用した 城ではなく、やはり峠越えの駐屯や哨戒といった性格の強い城だったものと考え られます。兵の駐留という役割を考えると、城域は関所や街道付近にまで及んで いたと思われますが、そちらの方は宅地化・観光地化が進んでいるので、表面上 の観察からは何ともいえません。 |
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宮野城址遠望。 | |
ホテル駐車場内の説明板。 背後の高まりは土塁。 |
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本丸の土塁。 | |
本丸の空堀。 | |
同上。 | |
二の丸の土塁。 | |
二の丸の堀跡と思われる痕跡。 |