水野氏陣屋(みずのし)
 別称  : 水野石見守陣屋、水野長勝陣屋
 分類  : 平城
 築城者: 水野長勝
 遺構  : 土塁、堀
 交通  : 東武東上線男衾駅徒歩10分


       <沿革>
           尾張水野氏宗家水野忠政の甥成清の子石見守長勝は、織田信長に仕えていた
          ものの、天正十八年(1582)の本能寺の変後は北条氏邦の家臣となった。長勝は
          鉢形城内に屋敷を与えられ、赤浜にも居館を設けたとされる。
           天正十八年(1590)の小田原の役で北条氏が滅ぶと、長勝も禄を失ったが、翌
          十九年(1591)に北条氏旧領に入った徳川家康に召し出され、以前と同じく赤浜
          周辺に800石を与えられた。長勝の登用にどれほどの影響があったかは不明だが、
          長勝の母は家康の母於大の方の実の姉妹にあたり(ともに水野忠政の娘)、両者
          は従兄弟にあたる。
           正保四年(1647)、長勝の子忠貞は、伏見奉行に任じられると同時に1500石に
          加増され、所領を大和国内に移された。これにより、赤浜の陣屋は廃されたものと
          推測される。ただし、陣屋内に開基された昌国寺は、その後も水野家の菩提寺と
          して遇された。


       <手記>
           荒川の河岸の昌国寺境内が水野氏陣屋跡です。四周をめぐる土塁と空堀が、
          断続的に比較的良好に残っています。とくに、正面入り口にあたる南辺やや東側
          には、横矢折れがばっちり認められます。
           墓地となっている西側に浅い谷が切れ込んでおり、今も水がしみ出しています。
          おそらくこのあたりの水利が、陣屋の選地に影響しているものと思われます。
           墓地の西端には小丘の上に水野家歴代の宝篋印塔があり、その周囲は土塁で
          囲まれています。陣屋の現役時には出丸ないし物見台的なものがあったのでは
          ないかとも考えられますが、確証はありません。そのさらに西側には東武東上線
          の線路が走っていますが、こちらにやや深い谷が入っていたようです。
           このように、陣屋としての旧態はそこそこ良く残しているのですが、反対に現況
          の寺院としての整備状況が芳しくありません。本堂は火災に遭って一度焼失した
          そうですが、復興状況があまりに残念で境内全体も荒廃しています。その結果、
          陣屋の遺構の方はわりと手つかずで残ったように感じられ、手放しで喜ぶわけに
          はいかない寂しさを覚えました。

           
 西辺の堀と土塁。
同上。 
 
 南辺南西隅付近の土塁。
南辺の土塁。 
 南辺東側の横矢折れ。


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