鉢形城(はちがた)
 別称  : なし
 分類  : 平山城
 築城者: 長尾景春か
 遺構  : 曲輪、堀、土塁、虎口、馬出、櫓台
 交通  : JR八高線・秩父鉄道寄居駅よりバス
       「鉢形城歴史館前」バス停下車


       <沿革>
           山内上杉家家宰白井長尾景信の子長尾景春は、父の死後叔父の総社長尾忠景が
          家宰職を継いだことに不満をもち、文明八年(1476)に鉢形城に籠って反乱を起こした
          (長尾景春の乱)。一般的に、鉢形城はこのときに景春によって築かれたと考えられて
          いる。それ以前に、平将門や畠山重忠が拠ったとする言い伝えもあるが、伝説の域を
          出ない。
           翌文明九年(1477)一月の五十子の戦いで山内・扇谷両上杉氏を駆逐した景春は、
          各地に同調者を得て一大勢力となった。同年五月には、体制を立て直した両上杉軍が
          用土原の戦いで景春を破り、そのまま鉢形城を包囲したが、落城には至らなかった。
          その後、扇谷上杉家家宰太田道灌の活躍により景春は同調者の多くを失い、翌十年
          (1478)七月、ついに鉢形城は道灌軍に攻め落とされた。山内上杉顕定は、鉢形城へ
          移って新たな居城と定めた。
           顕定には男子がなく、憲房・顕実の2人の養子があった。永正七年(1510)に顕定が
          長森原の戦いで自害すると、顕実が家督を継いだ。しかし、憲房を擁立する横瀬景繁・
          足利長尾景長によって同九年(1512)に鉢形城を攻め落とされ、顕実は実兄古河公方
          足利政氏を頼って落ち延びた。以後、憲房・憲寛・憲政の3代は上州平井城を居城と
          していたものとされ、その間の鉢形城主については詳らかでない。一説には、「郡主」
          を称する藤田右金吾業繁が「鉢形」にあったとされ、鉢形城主であった可能性が示唆
          されている。
           天文十五年(1546)、河越夜戦によって扇谷上杉氏は滅亡し、山内上杉氏も勢力を
          大きく後退させた。上杉方で参戦していた秩父の大身領主藤田重利(業繁とは同族と
          思われるが関係は不明)は、戦いの勝者である北条氏の圧迫を受け、まもなく降った。
          その条件として、重利(康邦)は北条氏康の四男乙千代丸を養子とした。乙千代丸は
          元服すると氏邦と名乗り、重利の娘大福御前を妻とした。重利は家督と居城天神山城
          を氏邦に譲って用土城へ移り、用土氏を称した。
           永禄七年(1564)ないし同十二年(1569)、氏邦は居城を鉢形城へ移した。この間の
          鉢形城主については不明である。同十二年九月には、甲相同盟破棄に伴う武田信玄
          の小田原侵攻に際して、鉢形城でも攻防戦があり、外曲輪が攻められたことが氏邦の
          書状から明らかとなっている(『上杉家文書』)。つまり、この時点で鉢形城は主城域の
          外側に曲輪を設けるほどの規模を有していたことになる。
           天正二年(1574)十月、越後の上杉謙信が北条勢に攻囲された関宿城の簗田持助
          を救援するために出陣し、鉢形城をはじめ武蔵の有力な北条方の諸城へ攻め寄せて
          城下に火を放った。しかし、あくまで牽制だったため、本格的な攻城へは至らずに撤退
          している。
           天正十八年(1590)の小田原の役に際し、氏邦は3千の兵をもって鉢形に籠城した。
          北条一族のほとんどがいわゆる小田原評定の後も小田原城に詰めていたなか、氏邦
          が自身の居城へ引き返したのは、籠城派に対して積極的野戦論を唱えたものの受け
          容れられなかったためといわれる。同年五月十九日、前田利家・上杉景勝・本多忠勝・
          真田昌幸ら3万5千の兵が攻城を開始した。それでも城は1ヵ月ほど持ちこたえたが、
          六月十四日に開城した。
           役後、徳川家康が北条氏旧領に入ると、徳川家臣日下部定好と成瀬正一が代官と
          して鉢形へ赴任した。城が存続していたかどうかは定かでない。存続していた場合、
          慶長五年(1600)の関ヶ原の戦い後に両者が新領を宛がわれた際に、廃城になった
          ものと考えられる。


       <手記>
           鉢形城は、荒川と深沢川に挟まれた細長い舌状の台地を利用して築かれています。
          とくに荒川側は、川が城山にぶつかってほぼ90度に折れるため、絶壁の断崖となって
          います。深沢川もまた、「四十八釜」と呼ばれる数多の淵をもつほどの渓谷を形成して
          おり、要害性は抜群です。
           現在、城内の大部分が鉢形城公園として開放されています。とくに二曲輪と伝秩父
          曲輪の2つを中心に大規模な発掘調査がなされ、その結果を基に復元された箇所も
          あります(曲輪の名称には数パターンありますが、ここでは現地の呼び方に準拠する
          ことにします)。逆に本曲輪周辺がなぜか手つかずですが、地権の関係でしょうか。
           主郭は細長く、最高所である南西端は櫓台状の土塁がコの字型に残っています。
          先端側である北東端は、堀切によってごく小規模な曲輪として独立しています。江戸
          時代に作成された『鉢形城図』には、この部分をして大天守とあるのですが、先述の
          とおり最高所にメインの櫓台と思われる遺構が見られる以上、ちょっと眉唾物です。
          おそらくは、北条氏以前の鉢形城の詰曲輪だったものと思われます。本曲輪とその下
          の伝御殿曲輪との間は、一部堀がある他は、規模は大きいものの単調な土塁が続い
          ており、ここまでが最初期の城域であると考えられます。
           本曲輪の西側は二曲輪・伝秩父曲輪と続き、城内でもっとも整備されたエリアとなり
          ます。二曲輪の特徴としては、全曲輪を通じて唯一堀と土塁の間に犬走りがあること
          が挙げられます。ただ、二曲輪よりも外側の秩父曲輪の方が高い位置にあり、上から
          狙われてしまうこの犬走りに、どれほどの防御効果があったのかは疑問です。さらに
          不可解なのが河岸側に設けられた角馬出で、縄張り上この位置にあるのは不自然に
          感じられます。これらのことから、鉢形城は最低でも2度の拡張を受けており、鉄砲戦
          が広まる以前に、二曲輪を最外郭とする改修が行われていたものと推測されます。
           伝秩父曲輪は2段となっており、下段を三曲輪と呼ぶこともあるようです。両段の間
          には、石段を伴う城門があったことが発掘調査から明らかとなっており、塀とあわせて
          推定復元されています。三曲輪の虎口脇櫓台には3段の、伝秩父曲輪の土塁からは
          5段の石積みが検出され、それぞれ復元されています。伝秩父曲輪の最高所からは
          規模の大きな建物跡と池泉跡が見つかっており、客殿があったのではないかと推測
          されています。
           三曲輪の先には諏訪曲輪と呼ばれる馬出状の曲輪があり、諏訪神社が鎮座して
          います。諏訪神社の南西が大手とされ、空堀によって喰い違い状の虎口が形成され
          ています。大手先の八高線線路から深沢川へ下る坂道の脇には「(おくり)泉水」と
          呼ばれる大規模な貯水池の跡があり、現在では水は溜まっていないものの、中央に
          弁天社跡とされる浮島が残っています。ちなみに線路に沿って最西端である大光寺
          曲輪の堀と土塁も部分的に見ることができます。
           ここまでが荒川と深沢川に挟まれた主城域ですが、深沢川の対岸には総構ないし
          根小屋に相当すると思われる外曲輪が展開しています。住宅地がすぐ脇まで迫って
          いるものの、南北に長大な土塁や堀が奇跡ともいえる美しさで残っています。その
          最南端には鉢形城歴史館があります。この歴史館がなんとも残念で、広い無料駐車
          場が用意されているものの、ここからメインの二曲輪・伝秩父曲輪方面へは直行する
          ことができず迂回を余儀なくされ、何より歴史館の展示内容があまりにも貧弱です。
          経験を積んだ城跡ファンには冗長なCGが目玉商品のようで、これを制作するのに町
          のなけなしの予算を使い果たしてしまったという感じでした…。
           
           
 本曲輪の城址碑。
本曲輪南西端の櫓台状土塁。 
 
 本曲輪を二分する堀切。
本曲輪北端(『鉢形城図』では大天守)の土塁。 
 本曲輪土塁と伝御殿下曲輪。
本曲輪と伝御殿下曲輪の間の堀跡。 
 本曲輪先端下の笹曲輪の石垣跡。
笹曲輪。 
 二曲輪の堀。高い方が伝秩父曲輪。
伝秩父曲輪から二曲輪の堀・犬走り・土塁を望む。 
堀・土塁とも控えめに復元されています。 
 二曲輪荒川側の馬出。
二曲輪深沢川側の馬出の堀。 
奥が泉水跡で、両者を分ける水戸違いの畝が見えます。 
 二曲輪深沢川側下の曲輪の土塁。
伝秩父曲輪の復興四脚門・石段と塀。 
 三曲輪の虎口。
伝秩父曲輪のようす。 
 伝秩父曲輪の池泉および御殿建築跡、
 ならびに5段の石積み土塁。
諏訪曲輪の空堀。 
 深沢川の渓谷。
外曲輪の土塁と堀。 
 外曲輪の馬出の堀。
大光寺曲輪東端の櫓台状土塁。 
 (おくり)泉水跡。
 中央左手の小丘は弁天社跡。
線路の向こうに大光寺曲輪の堀と土塁を望む。 
 大手の堀。


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