茂別館(もべつ) | |
別称 : 茂辺地館、下国館 | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 安東家政か | |
遺構 : 堀、土塁 | |
交通 : 道南いさりび鉄道茂辺地駅徒歩10分 | |
<沿革> 安東政季の弟・家政が居城していたとされるが、築城の経緯は不明である。政季は檜山系 安東氏(下国家)初代・安東盛季の甥の子で、盛季の孫・義季が享徳二年(1453)に南部氏 との戦いで討ち死にすると、下国家の名跡を継いで当初は下国師季を名乗った。 『新羅之記録』によれば、師季ははじめ南部氏に臣従し田名部に所領を与えられていたが、 享徳三年(1454)に武田信広や相原政胤、河野政通を誘って蝦夷に渡った。このときまでに 茂別館が家政の拠点となっていたとみられ、家政は下国氏ないし茂別氏を称したとされる。 康正二年(1456)、分家にあたる湊系安東氏(上国家)の安東尭季に招かれた師季は檜山城 を拠点とし、蝦夷には家政(下国守護)を含む三守護が設置された。 翌長禄元年(1457)にコシャマインの戦いが勃発すると、いわゆる道南十二館は花沢館と 茂別館を残してアイヌ軍に攻め落とされた。この戦いは家政と花沢館主・蠣崎季繁(上国守護) の娘婿であった信広が自立を図って仕組んだものとする説がある。ただし、もう一人の守護で ある松前守護の下国定季は戦後も健在であり、その子・恒季は明応五年(1496)に至って、 素行粗暴として政季の子・忠季によって滅ぼされている。 家政の跡は、孫の師季が継いだとされる。永禄五年(1562)、師季はアイヌに茂別館を攻め 落とされ、松前へ逃れて出家し清観と号したと伝わる。ただし、コシャマインの戦いと百年以上 の隔たりがあり、世代的にみて不可能ではないが無理がある。茂別落城を永正五年(1508) の誤りとする説もあるが、確証はない。 その後の茂別館については不明だが、師季の嫡子・重季の子孫は松前藩家老・下国家と して存続した。幕末には下国東七郎らが正義隊を結成して藩の実権を握り、館城への移転を 敢行している。 <手記> 茂別および茂辺地は「静かな川」を意味するアイヌ語「「モ・ペツ」が語源とされ、茂別館の麓 には、その名のとおり茂辺地川河口の穏やかな氾濫原と街並みが広がっています。館の跡は 矢不来天満宮境内となっていて、ぐるっと回って境内まで車で入ることができます。その際に 通る道は背後の堀底を一部利用しており、また土塁を切り崩して境内へと進入しています。 この堀切がなんといっても城内最大の見どころで、本殿背後の土塁跡と相俟って、中世城館 を訪ねている実感に浸れるでしょう。他方で境内前方はだだっ広くならされており、2段ほどの 削平地が見られますが遺構かは不明です。また、沢谷戸を挟んだひとつ北西の小峰にも小館 があったとされていますが、こちらはド藪もド藪で早々に訪城は諦めました。 『日本城郭大系』では、茂別館をアイヌのチャシの転用と推察していますが、私も同感です。 選地的に、また背後の堀と土塁が弧を描いている点からも、元はチャシであったとの印象が 大きく持たれました。他方で、チャシにしては郭内が広大に過ぎるようにも感じられ、運用形態 やチャシ時代の規模・構造については不明な部分も多いように思います。 ちなみに、茂辺地川の対岸街中には北斗星広場があり、2015年に廃止となった寝台特急・ 北斗星の客車が展示されています。内部は宿泊施設となっていて自由には立ち入れないよう ですが、広場から眺める分にはOKなようなので、ブルートレイン越しに館跡を望むアングルが 撮影できます。 |
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北斗星の客車越しに茂別館跡を望む。 | |
同じく小館跡を望む。 | |
館跡に鎮座する矢不来天満宮。 | |
背後の堀切。 | |
本殿裏の土塁。 | |
道路脇の土塁。 | |
境内のようす。 | |
境内下段の削平地。 |