望月城(もちづき)
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: 望月氏
 遺構  : 曲輪、堀、土塁
 交通  : しなの鉄道他田中駅よりバス
       「望月ターミナル」バス停下車徒歩15分


       <沿革>
          古代名族滋野氏流望月氏の居城である。望月氏は、平安時代より信濃十六牧筆頭の
         望月牧を預かり、滋野一族のなかでも海野氏・禰津氏と並び「滋野三家」と呼ばれる有力
         氏族であった。
          治承四年(1180)に木曽義仲が挙兵すると、望月国親はこれに呼応した。国親は義仲
         に殉じて粟津の戦いに斃れ、国親の子重隆は源頼朝に仕えた。このころに「城」が構え
         られていたかは不明である。
          建武二年(1335)七月、望月重信は他の滋野一族や諏訪頼重らとともに北条高時の子
         時行を擁して、鎌倉幕府再興を企てた(中先代の乱)。同月二十五日に、時行らは鎌倉
         を占領するに至ったが、翌八月一日、望月城は信濃守護小笠原貞宗の差し向けた兵に
         より攻め落とされ、破却された。重信はまもなく望月城を奪回し、その後も南朝方として
         小笠原氏や大井氏らと抗争をつづけたとされる。
          このとき破却された望月氏の居城とは、現在の望月城の南方にある天神林城を指すと
         する説も有力視されており、その場合、望月城は重信によって「新築」されたことになり、
         現在の望月城の歴史はここから始まることになる。
          天文十二年(1543)、佐久へ侵攻した武田晴信(信玄)に対し、望月城主望月昌頼は
         長窪城主大井貞隆らとともに抵抗を試みた。しかし、同年九月十九日に長窪城が落城
         すると、翌日には望月城も武田氏の手に落ちたとされる。『高白斎日記』には、このとき
         望月一族を成敗した旨が記されているが、少なくとも昌頼と庶流の望月源三郎・新六
         兄弟(昌頼との関係は不詳)の3名は生き残っている。
          源三郎・新六兄弟は、その後も布引山(現小諸市)に籠って抵抗を続けたようだが、
         『高白斎日記』によれば天文十八年(1549)に武田氏に降り、布引山を出て「出仕」した
         とされる。同年、源三郎は望月氏の惣領継承を認められ、晴信の偏諱を受けて左衛門
         佐信雅と名乗った。同日記には、同二十二年(1553)に「望月古城」とする記述があり、
         この年まで望月城が廃城状態であった可能性も考えられる。ただし、『高白斎日記』に
         ついては後世の改変がみられるとされるため、この間の経緯について真偽は明らかで
         ない。
          信雅は、晴信の弟信繁の子義勝を養子とし、義勝は信頼と改名した。信繁の妻は
         昌頼の兄妹とされ、信雅を昌頼の甥とする系図にしたがえば、信頼は信雅の従兄弟と
         いうことになる。永禄四年(1561)九月、第四次川中島の戦いで信繁は戦死し、信頼も
         同月に18歳の若さで死去した(病死ないし同戦いでの戦傷死)。信頼の跡は、実弟の
         信永がやはり信雅の養子として継いだ。信永は武田勝頼(従兄にあたる)の娘を娶って
         おり、武田氏がいかに望月氏の名跡を重視していたかがうかがえる。
          天正三年(1575)の長篠の戦いで信永も討ち死にしたが、後継ぎがいなかったため、
         印月斎と号していた信雅が家督に復帰したとされる。同十年(1582)に織田信長が武田
         氏を滅ぼすと、望月氏も織田氏に降ったと推測されるが、望月城で戦闘があったかなど
         詳細は不明である。同年の本能寺の変後の天正壬午の乱に際して、望月氏は北条氏
         に属した。望月城は徳川方の依田信蕃に攻撃され、1ヶ月半の籠城戦の末に落城した。
         この戦いにおいては、印月斎はすでに城を出ており、望月昌頼なる人物が城主であった
         ともいわれる。ただし、この昌頼が系譜上どこに連なる人物かは不明で、実在したかは
         疑問が残る。昌頼は、この戦いで18歳の若さで敗死したとされる(したがって信頼・信永
         兄弟の伯父昌頼とは明らかに年代が合わない)。
          この後、望月城が使用されたか否かは定かでない。


       <手記>
          望月城は鹿曲川と布施川に挟まれた細長い丘陵の一画にあります。東側のみ地続き
         の、お椀を伏せたような山容をしています。山頂の本丸から、一二三段に二の丸・三の丸
         と梯郭式に並び、その外側に二重の空堀を設けて峰続きの東側から隔絶しています。
          現在、三の丸の下まで畑地となっており、本丸から三の丸までは比較的良好に残って
         いるようですが、二重の空堀は両端付近を除いて埋められています。この畑地への道の
         入り口付近は「駒つなぎ場」と呼ばれており、狭義の望月城の大手と思われます。狭義
         というのは、本城域の南には旧中山道の峠があり、この峠を挟み込むように、さらに南側
         にも遺構が散見されるためです。この広義の望月城の南端は、総合体育館の裏手あたり
         とされています。
          中山道歩き旅の先を急いでいたのでそこまでは行けませんでしたが、西側から峠越え
         の瓜生坂を上りきったあたりで少し右手(南側)に入ったところに、出郭状の腰曲輪跡が
         見受けられました。峠と本城域の間にも、出郭状に張り出した箇所があり、小さな神社が
         鎮座しています。
          全体の感想として、山そのものが要害を成しているといえますが、武田氏の一門衆の
         城にしては、縄張りにあまり技巧がみられないように感じられました。とくに主城域は、
         山頂から段築状に削って、地続き部分を堀切っただけというごく単純な縄張りです。この
         ことから、信玄は望月氏の名跡は重要視していたものの、望月という土地にはそれほど
         (たとえば小諸ほどには)力点を置いていなかったのではないかと、個人的には感じられ
         ました。

          
 望月城址遠望。
本丸のようす。 
 本丸の土塁。
本丸から南方を望む。 
中央の細長い丘陵が天神林城址。 
奥のもっこりした山は蓼科山。 
 二の丸のようす。
三の丸から二の丸、本丸と見上げる。 
 三の丸直下の一番堀跡。
ひとつ外側の二番堀跡。 
 二番堀跡付近から本丸方面を望む。
駒つなぎ場跡。 
 主城域と峠の間に位置する神社。
 出郭跡か。
峠越えの瓜生坂。 
 瓜生坂の途中にある人工の切れ込み。
 竪堀跡か(ただの旧道のようにも見えますが)。
瓜生坂上南側の出郭状の腰曲輪跡。 
 峠を越えた東側の一里塚跡。
 塚というより、削平地群のようにも見えます。


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