門司城(もじ)
 別称  : 門司ヶ関山城、亀城
 分類  : 山城
 築城者: 紀井通資か
 遺構  : 石垣
 交通  : JR鹿児島本線門司港駅よりバス
       「めかり山荘」バス停下車徒歩10分


       <沿革>
           『歴代鎮西要略』によれば、元暦二年(1185)に平清盛の四男知盛が、家臣紀井通資に
          命じて築いたのがはじまりとされる。
           寛元二年(1244)、下総国にあって下総氏を称していた藤原親房が、幕府により豊前へ
          の下向を命じられた。建長七年(1255)、親房は門司ヶ関六郷を与えられ、門司城を居城
          とし門司氏を称した。親房の父祖については詳らかでないが、一説には中原(藤原)親能
          の孫とされる。これが正しければ、親能の養子となった大友氏の祖大友能直の義理の甥
          ということになる。
           門司氏は、要衝中の要衝である門司関を押さえていたが、それが故に近隣諸国の闘争
          にしばしば巻き込まれた。また、門司氏自体も多くの分家を輩出して細分化したため、思う
          ように勢力を伸ばすことができなかった。南北朝時代には、北朝についた宗家の門司親尚
          らに対し、猿喰城の門司親頼が南朝に与したため、一族で相争うことになった。
           『応永戦覧記』によれば、応永四年(1397)に門司城は大内義弘に攻められ、7日間の
          籠城戦の末に落城したとされる。『日本城郭大系』には、この戦いで「菊池貞頼」の城代
          木綿和泉守が討ち死にしたとあるが、「少弐貞頼」の誤りと思われる。同六年(1399)に、
          義弘が足利義満に謀叛を起こして堺に攻め滅ぼされると、貞頼は大内氏から豊前を取り
          戻した。しかし、貞頼の子満貞は、同三十二年(1425)に義弘の弟盛見に敗れた。
           永享三年(1431)には、大友氏の加勢を得た満貞が盛見を敗死に追い込み、門司城を
          回復した。だが、盛見の跡目争いを制した義弘の子持世が、幕府からの少弐・大友両氏
          追討令を受けて九州へ上陸し、門司城は再び大内氏の持ち城となった。この間、門司氏
          は存続していたようだが、門司城主であったかどうかは詳らかでない。
           天文二十年(1551)の大寧寺の変で大内義隆が自害し、大友義鎮(宗麟)の弟の晴英
          (義長)が大内氏当主に迎えられると、北九州の支配権は大内氏から大友氏に譲られた。
          『戸次軍談』によれば、門司城には城代として奴留湯主水が置かれたとされる。
           弘治三年(1557)、大内氏は毛利元就によって滅ぼされたが、このとき元就は、義鎮に
          対して九州には攻め込まない旨を約束していた。しかし、翌永禄元年(1558)には、元就
          はあっさり反故にして、小早川隆景に門司城を攻め取らせた。城代には仁保隆慰が入れ
          られ、門司城は毛利氏の九州攻略の拠点と位置づけられた。翌二年(1559)には、義鎮
          の命を受けた田原親宏が門司城を攻めたが、押し返された。
           永禄四年(1561)八月、義鎮は再度門司城奪還を試み、吉弘鎮信を大将とする1万5千
          の大軍をもって門司城を攻めさせた。また義鎮は、府内(博多とも)に停泊していたポルト
          ガル船に依頼し、海から城へ砲撃させた。その威力に籠城方は大いに驚いたとされるが、
          この船はなぜかまもなく戦域を去り、戦況に影響は与えなかったとみられている。元就は
          隆景を後詰に派遣し、同時に瀬戸内水軍に命じて、攻城軍にゲリラ戦を仕掛けさせた。
          大友軍はその後も猛攻を加えるが、落城させることができず、十一月に入り撤退を決断
          した。
           この永禄四年の攻城戦を、狭義には「門司城の戦い」と呼ぶ。ただし、同元年の戦いを
          「第一次門司城の戦い」、同四年のものを「第二次門司城の戦い」として分けたり、両者を
          併せて広義の「門司城の戦いと呼ぶこともある。
           隆慰の死後は嫡男元豊が城代を引き継ぎ、天正十六年(1588)の豊臣秀吉による九州
          平定まで、門司城は毛利氏に属していた。秀吉の九州仕置によって、門司城を含む豊前
          企救郡は毛利勝信(安芸毛利氏とは無関係)に与えられた。勝信は小倉城を居城とした
          が、門司城の扱いについては不明である。
           慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いの後、豊前国は細川忠興に与えられた。忠興は当初
          中津城を居城とし、門司城には家臣長岡勘解由左衛門を城代として置いて修築にあたら
          せた。忠興が居城を小倉に移した後の元和三年(1617)、門司城は廃城とされた。


       <手記>
           門司城は、関門海峡のもっとも狭まる早鞆ノ瀬戸に突き出た、円錐形の特徴的な山に
          築かれた城です。眼下には、源平合戦の最後の舞台である壇ノ浦古戦場があります。
          まさに、門司城を制する者は関門海峡を制するといった感じです。城山を含む周辺一帯
          は和布刈(めかり)公園として整備され、本丸跡には石碑が建てられています。ですが、
          門司城址自体は、明治時代に海軍の下関要塞が建設されたためにほぼ破壊しつくされ
          てしまっています。わずかな遺構として、本丸へ登る途中に、石垣がごく部分的に残って
          います。おそらく、これらの石垣は細川氏の改修時に築かれたものと思われます。
           今日では、城の縄張りすらほとんど不明ですが、本丸の東麓にある倉庫か何かの前の
          切通しは、城の堀切を利用したものではないかと推測されます。したがって、堀切で分か
          たれている本丸と峰続きの東側の尾根筋に、副郭が置かれていたのではないかと考え
          られます。
           門司城址は残念ながら往時を偲ぶには十分とはいえませんが、城下の門司港一帯は、
          「門司港レトロ」として売り出し中の、明治から昭和初期にかけてのロマンあふれる観光
          都市となっています。壇ノ浦古戦場に門司城址を一連の観光コースに加えれば、門司
          だけで平安末期から昭和までの歴史をたどることができることになります。

 
 本丸跡の門司城址碑。
本丸から関門海峡を望む。 
 本丸下の石垣跡。
同上。 
 本丸東麓の切通し道。堀切跡か。
おまけ:本丸にある下関要塞の砲台跡。 


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