小倉城(こくら)
 別称  : 勝山城、勝野城、指月城、湧金城、鯉ノ城
 分類  : 平城
 築城者: 緒方惟重か
 遺構  : 石垣、堀
 交通  : JR鹿児島本線/日豊本線西小倉駅徒歩5分


       <沿革>
           小倉藩士春日信映の著した『倉城大略史』によれば、文永年間(1264〜75)に緒方惟重によって
          築かれたのがはじまりとされる。惟重は、緒方惟栄の曾孫惟宗の子大賀(大神)惟重と推測される
          が、確証はない。また、惟重が小倉城が築いたとして、現在と同じ位置にあったとは考えにくい。
           『豊前志』には、菊池武光が小倉城を築き、三男武親を入れたとある。武光が小倉に城を築けた
          のは、九州探題一色範氏・直氏父子を駆逐した正平十一/延文元年(1356)から今川了俊(貞世)
          が新たな探題として派遣される建徳二/応安四年(1371)までの間と考えられる。ただし、武光の
          子に武親という名は確認できない。
           永禄十三年(1570)、毛利元就が高橋鑑種に小倉城を与えた。鑑種は元は大友家臣で岩屋城
          居城としていたが、同十年(1567)に大友氏から毛利氏に寝返り、同十二年(1569)に城を逐われ、
          元就を頼って落ち延びていた。したがって、このときまでには、小倉城は築かれていたことになる。
           天正十五年(1587)の豊臣秀吉の九州平定後、鑑種の養子元種は日向国縣へ転封となり、小倉
          を含む豊前国企救・田川2郡6万石が毛利勝信に与えられ、勝信は小倉を居城とした。勝信により
          小倉城は整備されたものと推測されるが、詳細は不明である。
           慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いで、勝信は西軍に属し、伏見城攻めなどに参加した。この間、
          小倉城は東軍の黒田如水(孝高)に攻め落とされた。戦後、勝信は改易され、豊前国は細川忠興
          に与えられた。忠興ははじめ中津城を居城とし、小倉城には弟興元を城代として入れた。しかし、
          興元は翌六年(1601)に兄との不仲を理由に出奔した。これを機に、忠興は同七年(1602)に居城
          を小倉城に移した。移転の理由としては、小倉の方が交通の要衝であるということのほかに、隣藩
          である黒田家や毛利家との関係が良好ではなかったことがあると考えられている。
           移転と同時に城の改修が行われ、同年中に一応の完成とみたとされる。同十五年(1610)まで
          には、天守も上げられた。この天守は層塔式5階建てで、南蛮造りないし唐造りと呼ばれる技法が
          用いられており、4階と5階の間にひさしがなく、最上階が下の階より広くはみ出しているという特徴
          をもっている。当時の最新のデザインをもったこの小倉城天守については、森忠政が津山城を築く
          際に、家臣を派遣して密かに調査させたという伝承が残る。天保八年(1837)、天守と本丸御殿は
          火災により焼失し、その後再建されることはなかった。
           寛永九年(1632)、細川家は熊本に移封となり、代わって明石城主小笠原忠真が15万石で小倉
          に加増転封された。このとき、中津城には忠真の甥長次が、細川家領であった杵築城には弟忠知
          が入り、それぞれ藩を興している。以後、小倉藩は小笠原家が10代続いて幕末に至っている。
           慶応二年(1866)の第二次長州征伐で、小倉藩は九州における最前線として戦ったが、逆に長州
          藩兵に攻め込まれた。総督小笠原長行(忠知の子孫で唐津藩世嗣)をはじめ、九州諸藩の軍隊は
          こぞって撤退してしまい、小倉城は孤立した。当時の藩主小笠原忠忱はわずか4歳で、家老の小宮
          民部・島村志津摩らは防戦を諦め、小倉城に火を放って田川郡香春へ退いた。民部は、落城の責め
          負って自害した。翌三年(1867)、長州藩と小倉藩との間で和議が成立し、企救郡は長州藩に割譲
          された。小倉城は復興されることなく、小倉藩は以後香春藩と呼ばれるようになった。


       <手記>
           小倉城は、紫川河口の小丘を利用した城です。本丸には、昭和三十四年(1959)に復興された
          天守閣が聳えています。上記の通り、当時の天守は層塔式で、破風は1つもありませんでしたが、
          それでは寂しいという理由で再興時にはコテコテに破風が付けられました。ちょっとデコレーション
          されるという程度なら、時代を考えれば仕方ないことのように感じますが、層塔式が望楼式に改変
          されてしまっているのは、問題のように思います。ロマネスク様式の教会をロココ調の宮殿に変えて
          しまうくらいおかしなことで、あまりにも残念で見るに堪えないくらいです。そんな私の心境を察して
          か、一通り見学した後で、私の訪城では珍しく小雨が降ってきました。
           小倉城には、天守とは別に、平成に入って本丸の東の「小倉城庭園」が建設されました。池泉式
          庭園と懸造りの書院建築があるのですが、どうもこれも、きちんと考証して復興されたものではない
          ようです。そもそも、『正保城絵図』にはこの場所は侍屋敷とあり、このような藩主別邸のような建物
          があったようには思えません。庭園自体は立派なもので、園内の池泉は紫川とつながっており、潮
          の干満に合わせて水面が上下するのだそうで、満潮時には沈んでしまう石橋もあるのだそうです。
          ここから望む天守閣は、たしかに絵にはなります。ただ、この庭園にも、雰囲気を壊す研修ルームや
          食事処が併設されており、どうも北九州には余計なものを付け足さずにはいられない伝統があるよう
          です。
           このほかにも、桝形が撤去されていたり、通路が狭いという理由で石垣を壊して戸口を広げられて
          いる門跡(鉄門)があったりと、素晴らしい石垣や堀を見た感動を相殺してしまう残念な箇所が散見
          されます。
           ひとすじの光明といえるのが、西小倉駅と駅前交差点の間で発掘された桜町口の石垣です。地下
          の石垣をガラス張りの歩道から覗けるようになっており、今後こうした発掘調査を経て、本物志向が
          小倉に根付いてくれれば…と願ってやみません。

 
 復興天守閣。
天守閣近望。 
 大手門跡から天守閣を望む。
大手門跡。 
 槻門跡。
 2階建ての櫓門で、2階は本丸御殿の玄関だったそうです。
西の口門跡。 
内桝形の門でしたが、桝形石垣は撤去されています。 
 鉄門跡。
 元は半分ほどの幅でしたが、
 右手の石垣を一旦撤去して幅を広げています。
中央のラインと石垣の間がかつての鉄門の幅です。 
 庭園から天守閣を望む。
懸造りの書院建築を望む。 
 城内唯一の空堀であった本丸北辺。
北ノ丸の石垣と堀。 
櫓や塀は八坂神社の建物。 
 発掘された桜町口の石垣。


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