籾井城(もみい)
 別称  : 福住城、安田城
 分類  : 山城
 築城者: 籾井照綱か
 遺構  : 曲輪、堀、土塁
 交通  : JR山陰本線園部駅またはJR福知山線篠山口駅
      からバスに乗り、「福住」下車徒歩15分


       <沿革>
           『福泉系図』によれば、永正年間(1504〜21)に籾井河内守照綱によって築かれたとされる。
          籾井氏は佐々木氏の流れをくむとされる丹波国人であるが、その来歴は詳らかでない。
           照綱の跡を継いだ右近太夫綱重は、多紀郡で戦国大名化した波多野氏に従い、波多野秀治
          の妹を娶ったとされる。綱重が後に隠居城として安口城を築いて移ると、嫡男の下野守綱利が
          籾井城と家督を継承した。
           天正三年(1575)に波多野氏が織田信長に反旗を翻すと、籾井・安口両城は最前線となった。
          同五年(1577)、丹波攻略を任された明智光秀により「籾井両城」が攻め落とされ、綱利は25歳
          で自刃したとされる。綱重は次男綱正とともに綱利の遺児を伴って落ち延び、子孫は福泉氏を
          称して藤堂家に仕えたと伝わる。
           なお、一般に流布している籾井城主として、籾井越中守教業がいる。『籾井家日記』によれば、
          籾井城は天正年間(1573〜92)の初めに教業が築いたとされる。教業は「丹波の赤鬼」の異名
          をもつ黒井城主赤井(荻野)直正に対して「青鬼」と恐れられたと伝わりるが、『籾井家日記』は
          事実でない内容が多く、その実在は疑問視されている。
           いずれにせよ、天正五年の落城時から八上城が落ちて波多野氏が滅亡する同七年(1579)
          の間に、籾井城は廃城となったものと推測される。


       <手記>
           福住集落の北に横たわる山塊の頂部が籾井城跡です。南東麓の禅昌寺脇から、南尾根伝い
          に登山道が整備されています。
           籾井城は山頂の主郭を中心に、南・西・北の三方の尾根に2条ずつ堀切を設け、その間を曲輪
          形成する構造となっています。ただし、西と北の各1条目の堀切以外は埋もれているのかもともと
          規模が小さいものか、堀としてはあまり明瞭とはいえません。主郭南辺には、虎口状の開口部が
          ありますが、『日本城郭大系』によれば太平洋戦争時に対空監視所が頂上に設けられていたと
          いうことで、その名残ではないかと記されています。
           全体として比較的まとまった城ではあるものの、規模の面ではお世辞にも大きいとはいえず、
          織田の軍勢をここで迎え撃つのはどだい無理があるかなといった感じです。

 籾井城跡遠景。
登城口下の説明板。 
 南尾根南端の堀切跡。
堀切上の腰曲輪。 
 南尾根1条目の堀切跡。
堀切上の腰曲輪。 
 主郭下の腰曲輪を俯瞰。
主郭のようす。 
 主郭南辺の開口部。
 太平洋戦争時の造作か。
主郭の城址碑。 
 主郭北側の曲輪。
同曲輪の中途にある塚状の土塁。 
 同曲輪北端の土塁。
北尾根1条目の堀切と土橋。 
 同堀切サイドのようす。
同上。 
 1条目の堀切向こうの曲輪。
同曲輪北西端の切岸。 
 北尾根2条目の堀切跡。
西尾根1条目の堀切。 
 同上。
西尾根2条目の堀切跡。 


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