黒井城(くろい)
 別称  : 保月城
 分類  : 山城
 築城者: 赤松貞範
 遺構  : 石垣、土塁、曲輪、虎口
 交通  : JR福知山線黒井駅徒歩25分


       <沿革>
           建武二年(1336)の箱根・竹ノ下の戦いでの戦功により、丹波国春日部荘を与えられた赤松
          貞範によって築かれたとされる。赤松氏の本領は播磨国にあったため、貞範は氷上郡葛野荘
          地頭の荻野氏を代官に任じたとみられている。やがて、嘉吉の乱で赤松氏が一時没落すると、
          荻野氏は赤松氏との従属関係を脱して黒井城を拠点に土豪化したものと推測される。
           天文二十三年(1554)正月二日、黒井城主荻野秋清は年賀の挨拶に訪れた荻野直正により
          殺害された。直正は後谷城主赤井時家の次男で、荻野氏の分家の1つである朝日城荻野家の
          養子となっていた。秋清は直正の叔父および外舅とされ、おそらく直正の母が秋清の姉であり、
          また秋清の娘が直正に嫁いだものと推測される。
           分家が主家を簒奪した形ではあるが、直正の実家の赤井氏と荻野氏は主従関係ではなく、
          下克上というよりは赤井氏が荻野氏を掌握して取り込んだ格好といえる。そのため、秋清殺害
          と直正の黒井城奪取は、一般に「乗っ取り」と表現される。なお、後世の資料では、黒井城主と
          なった直正は赤井姓に復したとされるが、一次史料においてはその後も荻野姓を称している。
          弘治三年(1555)に、直正の兄で赤井氏当主の家清が戦傷がもとで没すると、跡を継いだ子の
          忠家はまだ幼かったため、直正が補佐して実質的に赤井・荻野両家を差配した。
           天正三年(1575)十月、織田信長の命を受けた明智光秀が、丹波攻略のため黒井城に攻め
          寄せた。明智勢は付城を築いて包囲したが、2か月ほど経過した翌四年(1576)一月十五日、
          明智方で従軍していた隣領の八上城主波多野秀治が突如反旗を翻し、光秀軍を襲撃して追い
          落とした。直接の理由は明らかでないが、忠家の母は秀治の妹であり、赤井家と波多野家は
          縁戚関係にあった。明智勢の敗退を受けて、信長はいったん丹波攻略を保留し、直正と一応の
          和議を結んだ(第一次黒井城の戦い)。
           天正六年(1577)、光秀が再び本格的な丹波攻めに乗り出すと、赤井・荻野氏は波多野氏と
          共に反信長の旗幟を鮮明にした。しかし、このような緊迫した情勢のなか、翌七年(1578)三月
          九日に直正は病死した。直正の嫡子直義はまだ幼かったため、直正の弟の赤井幸家が後見と
          なった。ちなみに、黒井城で病床に伏していた直正を羽柴秀吉の家臣脇坂安治が訪ねて降伏
          を勧告したが、直正は丁重に拒否したうえで安治の武勇を称え、家宝である貂(てん)の皮の
          槍鞘を与えたとする逸話が脇坂家に伝わっている(『貂の皮由来記』)。しかし、当時の安治の
          身分や当時の状況を考えると不自然な点が多く、疑問視されている。
           同年九月ごろに八上城が攻囲されたが、光秀は前回の苦い経験から氷上郡との境に金山城
          を築いて波多野氏と赤井・荻野氏との連携を阻害したため、赤井勢は積極的な救援には出られ
          なかった。翌八年(1579)六月に八上城が開城すると、光秀は引き続いて黒井城攻略に転じた。
          忠家・直義らは抵抗したものの、明智勢は黒井城の支城を次々と落として包囲を狭め、確実に
          追い詰めていった。八月九日、黒井城はついに総攻撃を受けて落城し、直義・忠家は城に火を
          放って逃亡した。
           同年中に丹波国を平定した光秀は、黒井城主に重臣斎藤利三を任じた。後に将軍徳川家光
          の乳母・春日局となる福は、この年に黒井城で生まれたとされる。天正十年(1582)に、光秀が
          本能寺の変を起こして滅亡すると、秀吉家臣堀尾吉晴が黒井城主となった。吉晴が佐和山城
          4万石に移された同十三年(1585)までに、黒井城は廃城となったと考えられているが、詳しい
          経緯は明らかでない。


       <手記>
           黒井駅の北に聳えるたいへん形の良い山が黒井城跡です。波多野氏の八上城と並んで一見
          して名城と判る山容で、これに船井郡の八木城を加えて「丹波三大山城」とも呼ばれているそう
          です。3つとも、丹波を代表する大身領主の居城となっていた点も、興味深いといえるでしょう。
           南西麓の興禅寺付近に登山者用駐車場が2か所用意され、城跡ファンだけでなくハイキング
          の一般客も多く訪れています。この興禅寺は少なくとも斎藤氏時代の居館跡とされ、門前には
          水濠があるうえ、境内には春日局の産湯とされる井戸もあります。
           興禅寺から少し遡った豊岡稲荷神社脇が登城口で、尾根筋と谷筋の2ルートあります。前者と
          後者でいわゆる男坂・女坂の関係にあり、登り降りしやすいのは女坂の谷筋ですが、道中には
          遺構がありません。男坂の尾根筋には三段曲輪と呼ばれる腰曲輪群や太鼓の段があります。
          男坂は降りるのは危険なくらい急なので、私は尾根筋を登って谷筋を帰るルートを選びました。
           三段曲輪は、実際には3段どころか断続的に6段くらいある腰曲輪群で、最上段背部には堀切
          の痕跡も見られます。遺構保護のためということでかつては曲輪を真ん中を貫通していた通路を
          通行止めにしていますが、遅きに失した感は否めません。結局、脇に新しく通路を設けただめ、
          遺構群の全体像は把握しにくくなってしまっています。
           太鼓の段については、三段曲輪からだいぶ登った先にある独立した腰曲輪です。防備は中途
          半端ですが眺望に優れていて、名称のとおり太鼓などで指示を出したり急を報せたりするのに
          使われていたものと推測されます。太鼓の段から少し上がると石踏の段と呼ばれる数段の広い
          削平地があり、女坂とはここで合流します。
           石踏の段まで来れば七合目といったところで、まもなくいよいよ主城域です。麓からでも分かる
          テーブル状の主城域に到着すると、まず三の丸の石垣がお出迎えしてくれます。石垣は二の丸・
          本丸にも残っており、最盛期には主城域がほぼ総石垣だったと推測されます。隅石が見られる
          ことから、これらの石垣は斎藤利三ないし堀尾吉晴によって構築されたのでしょう。赤井氏時代
          にも石塁が用いられていたのかは不明です。
           黒井城の山容はとにかく特徴的で、八上城と共に子どものころから写真で目に焼き付いていま
          した。こうしてようやく実物に登れて感慨もひとしおでしたが、金山城に続いて比高250mの登山
          となり、疲労感もひとしおでした笑

 黒井駅付近から黒井城跡を望む。
興禅寺。斎藤利三の居館跡とされています。 
 三段曲輪の南端。
三段曲輪のようす。 
 同上。
 曲輪を貫通する山道が通行止めになっています。
三段曲輪の1つのようす。 
 三段曲輪最背部の堀切跡。
太鼓の段。 
 石踏の段。
石踏の段から主城域を見上げる。 
 三の丸の石垣。
三の丸から二の丸石垣を望む。 
 二の丸側面の石垣を望む。
二の丸のようす。 
 二の丸から三の丸を俯瞰。
本丸を望む。 
 本丸前方の空堀。
本丸虎口。 
 本丸から二の丸を俯瞰。
本丸のようす。 
 本丸の城址碑。
本丸背後の曲輪を俯瞰。 
 おまけ:麓を走るJR福知山線。


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