百の井屋敷(もものい)
 別称  : 戸田御所、桃井屋敷、多吹苑、江城
 分類  : 平城
 築城者: 戸田六郎または桃井直常か
 遺構  : なし
 交通  : JR埼京線戸田公園駅徒歩5分


       <沿革>
           荒川沿岸に「百の井屋敷」と呼ばれるところがあり、桃井氏の屋敷が営まれていたと推測されて
          いる。また戸田城近くの海禅寺は、桃井直和の開基と伝わり、もともとこの地にあったとされる。
          桃井氏は足利氏の一族で、直和の父直常は、観応の擾乱に際して足利直義派に属して戦った。
          直義死去後、直常は直義の甥直冬を擁して再び幕府と争うが、貞治元/正平十七年(1362)に
          敗れて鎌倉の足利基氏を頼った。直常が戸田に屋敷を構えたとすればこのころとも思われるが、
          詳細は不明である。同六/同二十二(1367)に基氏が死ぬと、直常は上洛して出家した。
           現在の海禅寺は直和開基と伝わっているが、字百の井屋敷にあった寺の開山はもっと古いとも
          いわれている。このことから、同地には直常以前から在地領主の館があったとする説もある。この
          場合、築城者に比定されているのは野与党の一族戸田六郎基泰である。基泰は箕匂能元の子で、
          鎌倉時代初期に戸田に住み、戸田氏を称したとされる。

       <手記>
           百の井屋敷と呼ばれる場所は、『中世城館調査報告書集成』によれば現在の本町5-5付近だと
          いうことです。比定地は戸田中学校に東隣する一画で、今は住宅地となっています。周辺も完全に
          開発されてしまっているので、遺構等は何もありません。比定地の南隣には、戸田漕艇場と早大や
          慶大の艇庫があります。
           北西にはかつて菖蒲沼があり、南には荒川が流れる河岸の館であったものと推測されます。また、
          東には中山道と戸田の渡しがあり、交通の要衝にあったこともうかがえます。

           


百の井屋敷比定地現況。


BACK