戸田城(とだ)
 別称  : 蕨城、戸田御所、左衛門屋敷、竹の内所、
       江城、前谷遺跡
 分類  : 平城
 築城者: 渋川氏か
 遺構  : 土塁
 交通  : JR埼京線戸田公園駅徒歩10分


       <沿革>
           『新編武蔵国風土記稿』には桃井直常の屋敷跡とある。桃井氏は足利氏の一族で、直常は観応
          の擾乱で足利直義派に属して戦った。戸田城の南1qほどのところには、同じく桃井氏関連の館跡
          と思われる百の井屋敷があるが、両者の関係は不明である。
           直常は、貞治元/正平十七年(1362)に幕府軍に敗れ、鎌倉の足利基氏を頼った。貞治六/
          正平二十二(1367)に基氏が死ぬと、上洛して出家した。
           『記稿』では、戸田城址付近に残る小字「元蕨」について、「今の蕨宿はここより移れり」と記して
          いる。このことから、戸田城を同じ足利氏一門の渋川氏の居城蕨城に比定する説も根強い。『鎌倉
          大草子』には、渋川義行が貞治・応安年間(1362〜75)に武蔵国司となり、蕨に入ったとある。
           また『賀上家文書』の渋川直頼譲状には、蕨郷を含めた12か国・22か所の所領を「金王丸」に
          譲るとある。この金王丸とは、直頼の子義行を指すと考えられている。さらに義行の曾孫義鏡は、
          堀越公方足利政知に従って関東探題となり、蕨城に入った。戸田城が渋川氏居城の蕨城であった
          とすると、天正十八年(1590)の小田原の役後に渋川氏が蕨を去るまで、戸田城は存続していた
          ことになる。

       <手記>
           戸田城は、上戸田の光明寺一帯にあったとされています。諸資料には堀や土塁が残っていると
          ありますが、開発の進んだ今日では遺構の確認は困難です。光明寺の北隣には、元蕨第三公園
          という、元蕨の小字を今に残す公園があります。この公園と光明寺のちょうど境が土盛り状に東西
          に延びています。あるいは土塁の痕跡かもしれませんが、表面観察からは何ともいえません。
           戸田城は、いつ・誰によって築かれたかあやふやな城です。戸田城の西にある海禅寺は、直常
          の子直和の開基と伝わっていますが、古くは百の井屋敷の地にあったとされています。蕨の宿場
          も戸田城の地から現在の蕨宿の地に遷されたとすると、時期は不明ながら百の井屋敷→戸田城
          →蕨城という集落の中心の段階的移転があったことが推測されます。
           戸田城=蕨城とする説では、戸田城が義行(または直頼)から義鏡そして小田原の役まで一貫
          して継続使用されていたと想定しているように思われます。ですが、開発途上の義行の時代なら
          ともかく、緊張状態の関東に乗り込んできた義鏡が拠点とするには、戸田城はあまりにも要害性
          に乏しいといわざるをえません。ですので、少なくとも義鏡が居城とした蕨城は、従来のごとく蕨市
          の蕨城であろうと考えています。個人的な憶測としては、百の井屋敷(桃井氏)→戸田城(直頼と
          義行)→蕨城(義鏡以降)という変遷が妥当ではないかと思っています。
           ちなみに、戸田城というのは『中世城館調査報告書集成』にみられる便宜上の呼称です。『日本
          城郭大系』では戸田市の蕨城としており、諸サイトでもこれに倣ったのか蕨城(戸田)とするものが
          多く見受けられます。

           
 元蕨第三公園(手前)と光明寺(奥)。
 写真中央のコンクリート壁一帯は土塁跡か。
光明寺。 
 海禅寺。


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