桃生城(ものう)
 別称  : なし
 分類  : 古代城柵
 築城者: 日本朝廷
 遺構  : 曲輪跡か
 交通  : 三陸自動車道桃生豊里ICから車で7分


       <沿革>
           『続日本紀』によれば、天平宝字元年(757)から築城の準備が進められ、同三年(759)に
          完成したとされる。同年には出羽国にも雄勝城が築かれ、桃生城は陸奥国北部への進出の
          拠点と見做されていたものと考えられている。
           これに対し蝦夷側は反発を強め、宝亀五年(774)には海道蝦夷が蜂起して桃生城を襲い、
          陸奥按察使および鎮守将軍であった大伴駿河麻呂は、城の西郭が破られたことを都に急報
          している。このときは大事には至らず、逆に駿河麻呂は同年中に、蝦夷の遠山村(登米町に
          あったと考えられている)を落として朝廷から賞された。
           これ以降、桃生城の名は史料に現れなくなる。宝亀十一年(780)に伊治呰麻呂が反乱を
          起こした際(宝亀の乱)、呰麻呂が背いた理由の1つとして元は桃生郡がその一部であった
          雄勝郡の大領・道嶋氏への怨恨が挙げられるものの、多賀城まで落としていながらやはり
          乱を通じて桃生城は登場しない。このことから、遅くとも同年までには廃城となっていたもの
          と推察される。


       <手記>
           桃生城の場所は戦後しばらく諸説提唱される状況だったそうですが、1970年代に飯野中山
          の丘陵を中心とする範囲で確定したようです。政庁のあった内郭の西側に東郭、そして谷を
          挟んだ西側の支尾根に上出の西郭があったとみられています。
           さらに外側の稜線に土塁を築いてぐるっと囲った古代城柵ということで、遺構は山林の中で
          見学は困難だろうと、安易に南麓の新田交流会館から丘陵を眺めるにとどめました。しかし、
          後で知ったことにはそこから真っすぐ政庁跡まで登ることができ、発掘調査の痕跡と説明板が
          見られるそうです。なんとも残念なことをしましたが、できることなら多賀城とまではいわずと、
          いくらか整備されてから再訪したいものです。

           
 南麓から桃生城跡の丘陵を望む。
 左手が西郭、右手が内郭と東郭。
新田交流会館駐車場より。 
石碑(招魂碑)裏の道を進めば政庁跡に至るそうです。 


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