多賀城(たが) | |
別称 : なし | |
分類 : 古代政庁 | |
築城者: 大野東人 | |
遺構 : 築地跡、礎石跡など | |
交通 : JR東北本線国府多賀城駅徒歩10分 | |
<沿革> 神亀元年(724)、大野東人(おおののあずまひと)によって築かれたと伝えられる。多賀城周辺は 当時大和政権の支配が及ぶ北限であり、多賀城は奥州の蝦夷に対する備えと権威の確立を目的 として築かれたものであった。それ以前の陸奥国府は、現在の東北本線長町駅の東側にある郡山 遺跡に置かれていたと推定されている。 天平六年(762)、多賀城は藤原恵美朝狩によって修築され、宝亀十一年(780)に伊治公呰麻呂 の乱で一度焼失した後に、再建された。坂上田村麻呂が征夷大将軍として北進し、延暦二十一年 (802)に胆沢城を築くと、多賀城は前線としての役割を終えることになった。貞観十一年(869)には、 貞観地震により大きな被害を受け、再建されたものの規模は縮小されたと考えられている。 こうして、古代政庁としての多賀城は自然消滅していったが、11世紀の前九年・後三年の役では、 軍事拠点として再び使用された。南北朝時代には、建武の新政で新設された奥州府の鎮守として、 北畠顕家と義良親王が多賀城に赴任した。多賀城は、その後しばらく奥州小幕府として奥州の中心 であったが、岩切城にあった北朝方の奥州管領畠山国氏・吉良貞家らの攻撃によって落城した。 顕家らは延元二年(1337)に霊山城を築いて移り、多賀城は国府としての機能も失った。 明確な廃城時期は明らかでないが、南北朝争乱や観応の擾乱が終結し、城としての機能が岩切 へ移っていくなかで自然と朽ちていったものと思われる。 <手記> 歴史の教科書でも名前だけはお馴染みの城ですが、10年ほど前に国府多賀城駅ができるまでは、 陸の孤島のような場所にある埋もれた古跡でした。今では新駅の前に案内所もでき、要所要所で ボランティアの方がガイドをしていて、ようやく観光名所として整備されてきたように思われます。私が 訪れたのはゴールデンウィークの中日だったのですが、シート持参の家族連れからアベックまで色々 な人が訪れていました。 多賀城は、仙台平野の北限、丘陵地帯に入る境界に築かれています。西と南に川が流れ、城の 中あるいは前面を、塩釜街道が走っています。古代より港町として栄えた塩釜と古代奥州路の間に あり、交通上も重要な場所に位置していたと考えられます。 僕はこれまで、古代政庁というイメージから、多賀城とは戦闘よりも儀式的な施設に過ぎないと思 い込んでいました。しかしいざ訪れてみると、政庁跡は意外と高所にあり、また外郭の門はわざわざ 丘の上に配置されているなど、要害性も意識した造りになっていることに気づかされました。政庁跡 の丘からは、仙台平野が一望できます。 多賀城は、割と昔から発掘調査を重ねており、訪れてみればその成果を存分にうかがうことがで きます。政庁のある中心部分はもちろんですが、日本三大古碑の1つ「多賀城碑」のある南大門の 丘や、実務的な役所が並んでいたと考えられている作貫地区など、足を伸ばした分だけ多くの見所 があります。 特に政庁の東側、谷を挟んだ隣の丘にある作貫地区は、中世には豪族の館、江戸時代には塩釜 神社の神官の屋敷があったとされています。作貫地区では、発掘の結果、建物跡のほかに土塁や 空堀の跡が見つかっています。これらは、古代のものというより明らかに中世城館の様相が強いも ので、多賀城本体の荒廃後も、一部が中世城館として使用されていたのではないかという憶測を掻 き立てます。 ちなみに、上の地図で囲った部分は外郭のおおよそのライン、小さな丸は門が開かれていた部分 を示しています。 |
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政庁の丘を望む。 | |
政庁跡から城下を望む。 | |
南門跡。奥に政庁跡の基壇が見えます。 | |
築地跡の土塁。右奥は南大門跡。 | |
作貫地区のようす。 | |
日本三代古碑の一つ「壷の碑」(「多賀城碑」)。 |