本宮城(もとみや)
 別称  : 菅森館、愛宕館
 分類  : 平山城
 築城者: 畠山満詮
 遺構  : 曲輪跡、土塁、堀
 交通  : JR東北本線本宮駅徒歩15分


       <沿革>
           畠山国詮の子で、二本松城を築いた畠山満泰の兄にあたる満詮によって築かれたと
          される。満詮は本宮氏を称し、本宮氏からさらに鹿子田氏が分かれた。
           天文十一年〜十七年(1542〜48)の天文の乱において、本宮宗頼は伊達晴宗に与し
          稙宗方の本家と対立して攻め滅ぼされた。宗頼の子直頼は岩城氏を頼って落ち延びた
          が、後に伊達政宗に仕えた。本宮城は二本松畠山氏の支城となり、城代が派遣された。
           天正十三年(1585)十月、政宗は二本松攻めの兵を挙げ、畠山方は本宮城など支城
          の兵を二本松城に引き揚げて籠城の構えをとった。伊達勢は本宮城などを接収し、同年
          十一月には政宗が本宮に入城した。
           一方、二本松救援のために佐竹・蘆名・二階堂・岩城・石川氏らの連合軍が終結する
          と、政宗は十一月十七日に本宮城を出て、安達太良川の南の観音堂山に陣を布いた。
          まもなく、いわゆる人取橋の戦いが勃発し、伊達勢は苦戦を強いられたものの、同日夜
          に佐竹義重の叔父小野崎義昌が刺殺されるなどの諸要因により主力の佐竹軍が撤退
          したことから、政宗は窮地を脱して本宮城も陥落を免れた。
           翌天正十四年(1586)に二本松家は滅亡するが、以降の本宮城については詳らかで
          ない。


       <手記>
           本宮城は、安達太良神社の鎮座する菅森館の丘と、愛宕神社の建つ愛宕館の2つの
          総称で、両者の間の本宮小学校付近に居館があったとされています。安達太良神社の
          背後が最高所ですが、頂部には曲輪形成された形跡がなく、全体的な構造には不明な
          点も多々あります。
           明瞭な遺構は、安達太良神社の北東側に見られます。まず広めの曲輪跡があり、ここ
          に城跡の説明板が設置されています。説明板の裏には土塁状の地形があり、また曲輪
          北東側面には、堀跡のような地形も見受けられます。
           また、花山公園となっている頂部西側中腹の広場も、曲輪跡の可能性があるでしょう。
          ここには、本宮出身の歌手伊藤久男の顕彰碑があります。小生は「イヨマンテの夜」が
          持ち歌の1つなのですが、恥ずかしながらこのときまで、伊藤久男が本宮出身とは知り
          ませんでした。
           愛宕館の方は、頂部が愛宕神社境内となっていますが、取り立てて遺構らしきものは
          見当たりません。丘自体が、道路や小学校のプールなどによって削られているようで、
          旧状をうかがうのも少々困難です。

           
 安達太良神社(菅森館)参道下。
安達太良神社本殿。 
 本殿北東の曲輪跡。
同曲輪の説明板。 
裏手に土塁跡。 
 同曲輪北東中腹の堀状地形。
本殿裏の頂部斜面。 
 頂部西側の花山公園。
 曲輪跡か。
愛宕神社(愛宕館)の丘を見上げる。 
 愛宕神社境内。
愛宕神社からの眺望。 
 同じく菅森館および鞍部の館跡を望む。


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