物集女城(もずめ)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 物集女氏
 遺構  : 水濠、土塁
 交通  : 阪急京都線落洛西口駅徒歩5分


       <沿革>
           物集女城は、西岡衆の1人物集女氏の居城と考えられている。物集女氏は秦氏の一族とされ、
          もともとは天竜寺領物集女荘の代官であったものが国人化したものである。長享元年(1487)の
          上久世荘公文に、西岡衆らの緩やかな連帯である「惣国」の代表者の1人として、物集女四郎
          右衛門尉光重の名がみられる。
           物集女は、古くは『太平記』に戦場として登場するが、城に関する記述は今のところ史料からは
          見つかっていない。物集女城は物集女氏の居館が城砦化したものと思われるが、いつごろ整備
          されたのかは定かでない。
           永禄十一年(1568)、織田信長が足利義昭を奉じて上洛を果たすと、西岡一帯は細川藤孝の
          指揮下に入った。藤孝は、元西岡衆ら国人の所領を安堵する方針を採ったが、物集女忠重入道
          宗入はこれに反抗的な態度をとった。天正三年(1575)、忠重はついに藤孝の居城勝龍寺城
          誘殺され、物集女氏は没落した。これにより、物集女城も廃城となったものと思われる。
          

       <手記>
           物集女城は、物集女集落のほぼ中心に位置し、東側から北側にかけての水濠と土塁が良好に
          残っています(上の地図に太線で図示)。背後に向日丘陵を控え、眼前に物集女縄手と呼ばれる
          嵯峨と西国街道を結ぶ脇往還が走る要衝にあります。向日丘陵には多くの沼沢があったようで、
          物集女が生産性の高い集落であったことがうかがえます。
           城跡の東と西のそれぞれに説明板が設置されています。西の説明板付近からは、城の北西端
          とされる櫓台の土塁が望めます。

           
 東側の水濠と土塁。
櫓台とされる北西隅の土塁(ムクの木)。 
 東方より物集女城を望む(中央下のこんもりした藪)。


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