六車城(むぐるま)
 別称  : 富田城
 分類  : 平山城
 築城者: 六車氏
 遺構  : 曲輪、堀、土塁
 交通  : JR高徳線讃岐津田駅からバスに乗り、
      「谷町」下車徒歩5分


       <沿革>
           安富家臣六車宗湛の居城とされるが、築城年代は六車氏の出自などは定かでない。
          元亀元〜三年(1570〜72)ごろに安富盛定が舅で三好家重臣の篠原長房と結託し、
          寒川元隣を脅迫して大内郡4郷を割譲させた。安富領と三好領を接させるための画策
          といわれる。盛定は元隣の旧居城である虎丸城へ移り、代わって宗湛が盛定の居城
          であった雨滝城を預けられた。
           天正十年(1582)、中富川の戦いで長宗我部元親に敗れた十河存保が虎丸城に退く
          と、盛定は小豆島へ逃れて、羽柴秀吉が援軍として派遣した仙石秀久を迎え入れた。
          しかし、秀久は翌十一年(1583)の引田の戦いに敗れて淡路へと逃げ帰り、雨滝城は
          長宗我部勢に囲まれて孤立した。宗湛は降伏を余儀なくされたが、『南海通記』によれ
          ば、そのまま雨滝城の守将を任された。
           遅くとも天正十三年(1585)の秀吉による四国平定に際して、雨滝城とともに廃城と
          なったものと推測される。


       <手記>
           雨滝城の南麓、津田川沿いの小丘が六車城跡です。東西2郭から成り、天神神社の
          ある東側が二の丸とされています。両郭の間は堀切となっていて、堀底には六車家の
          墓があります。
           本丸が二の丸より倍以上広いのが特徴で、当時はここに居館施設などがあったの
          かもしれません。本丸跡はかつて耕作地だったようで、城とは関係なさそうな溝が縦横
          に走っています。現状は薄暗い竹林で、かなり放置されてしまっているらしく枯竹・倒竹
          がひどく、西端に土塁があるらしいのですがそこまで辿り着けませんでした。

           
 六車城跡と、その奥に雨滝城跡を望む。
本丸と二の丸の間の堀切。 
 天神神社境内となっている二の丸。
二の丸からの眺望。 
 二の丸から本丸を望む。
本丸内部現況。 


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