村岡城(むらおか) | |
別称 : 高谷砦 | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 平良文か | |
遺構 : 堀跡か | |
交通 : JR東海道線・小田急江ノ島線藤沢駅よりバス 「高谷小学校入口」バス停下車徒歩5分 |
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<沿革> 坂東平氏の祖平高望(高望王)の五男良文が、相模国村岡に入植して村岡五郎を称した とされ、村岡城はこの良文の居城として築かれたとする説が一般に流布している。ただし、 良文が下向した村岡は、武蔵国大里郡にあったとする説もある(『今昔物語集』には、荒川 を挟んで対立していた良文と源宛が一騎打ちに及ぶ説話が載せられている)。また、当時は まだ山上に要塞を常備するという慣習はなく、良文がこの地に住したとしても、城まで築いて いた可能性は高いとはいえない。 村岡城北東の二伝寺には、良文以下忠光−忠通と3代の塚が残されている。忠通は三浦 党や鎌倉党の祖とされるが、村岡氏のその後については詳らかでない。後三年の役で活躍 した鎌倉五郎景政は、忠通の曾孫とされるが、村岡城の北隣の三日月山の麓には景政の 産湯の井と伝わる三日月井があった。景政の後、鎌倉党の主導権は一族の大庭氏や梶原 氏に移り、村岡氏や村岡荘がどうなったのかは定かでない。 元弘三年(1333)、鎌倉幕府打倒の兵を挙げた新田義貞は、西からの鎌倉突入を試みた。 現地説明板では村岡周辺でも戦闘があったとされるが、その頃に村岡城が存在したか否か は、前述のとおり不明である。 『鎌倉市史』および『藤沢市史』では、村岡城をして高谷砦と呼称し、玉縄城の支砦とする 見解を示している。これが正しければ、村岡城の存在時期は、玉縄城が築かれた永正九年 (1512)から、天正十八年(1590)の小田原の役までの間に絞られることになる。 <手記> 閑静な住宅街の一角に村岡城址公園があり、園内には立派な城址碑が建っています。 しかし、広いグラウンドを備えた園内はきれいに均されており、城跡の面影はまったく残って いません。城址碑の脇には三日月井跡の小さな碑もあるのですが、位置は異なっており、 現在の公園北東隅の北側付近にあったようです。その背後には三日月山があり、その周囲 には小さな谷戸が複雑に入り込んでいたようですが、宅地造成によって窮状はうかがい難い 状況となっています。 公園の南麓にある長福寺の脇には、旧鎌倉道が南北に走っていたそうです。寺の西側に は、公園から小さな谷の切れ込みを隔ててもう1つピークがあります。この付近は、寺が業者 を入れて墓地開発をしているようで、現在進行形で開発されているところです。ひとむかし前 の地図には、このピークに神社があったそうですが、開発にともなって移転させられたのか、 冠木門のような鳥居と土台を残すのみになっています。ここからの眺望は素晴らしく、村岡城 が玉縄城の支城であったならば、おそらくここも城域に含まれていただろうと推測されます。 とすれば、このピークと公園の間の切れ込み谷は、堀切跡と考えるのが妥当と思われます。 上述の通り、私は村岡城を平良文の「居城」とすることには懐疑的です。ただし、村岡氏が 村岡城址周辺に居を構えていた可能性まで否定するものではありません。とくに、柏尾川に 面した谷戸に位置する長福寺であれば、平安武士が居館を構えたとしても不思議ではない と考えます。 いずれにせよ、村岡城址周辺が良文ゆかりの地であるとすれば、関東でも屈指の歴史を もつ地域ということになります。そのような場所が、ろくすっぽ調査もなされないまま、一面の 住宅地や墓地開発に飲まれてしまっているというのは、残念な限りです。 |
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村岡城址公園入口。 | |
村岡城址碑。 | |
城址碑脇の三日月井跡碑。 | |
長福寺西背後の峰を望む。 | |
峰上から長福寺を見下ろす。 | |
峰上のようす。神社跡か。 |