玉縄城(たまなわ)
 別称  : 甘縄城
 分類  : 山城
 築城者: 北条早雲(伊勢宗瑞)
 遺構  : 削平地、土塁、櫓台、堀、古道
 交通  : JR東海道本線他大船駅徒歩20分


       <沿革>
           永正九年(1512)、北条早雲(伊勢宗瑞)によって築かれたとされる。当時、早雲は相模統一に
          向けて、最後の障害である三浦氏への攻勢を本格化させていた。住吉城を落として、三浦義同
          (道寸)・義意父子を三浦半島へ押し込めることに成功した早雲は、玉縄城を築いて東相模経略
          の拠点とした。
           永正十三年(1516)、早雲が三浦父子を新井城に追いつめて攻囲していたところ、武蔵の扇谷
          上杉朝興が救援のため出兵した。早雲は包囲続行に必要な兵だけを残し、主力を率いて玉縄へ
          兵を返した。両者は玉縄城の北方で合戦に及んだとされ、上杉勢は敗れて撤退した。
           同年中に三浦氏も滅ぼされ、玉縄城は当初の役割を果たした。しかし、玉縄城の利用価値は
          失われず、改修を受けて東相の拠点城として重要視され続けた。城主には、早雲の次男ないし
          三男とされる氏時が任じられた。ただし、氏時の着任時期については詳らかでない。
           大永六年(1526)、安房の里見実堯(ないし実堯の甥で当主の義豊)が、海路三浦半島へ上陸
          し、鎌倉へと攻め上った。鎌倉を掠奪した里見勢は、次なる狙いを玉縄城に定めた。氏時は城を
          出て、柏尾川を挟んで里見軍と対峙した。氏時勢はこの戦いに勝利し、里見勢は安房へ退いた。
           その後、氏時は享禄四年(1531)に死去し、跡を甥の為昌(早雲の嫡男氏綱の三男)が継いだ。
          しかし、為昌は天文十一年(1542)に早世し、為昌の後見役であった福島綱成が、養子となって
          玉縄北条氏を継いだ(ただし、綱成は為昌より年長)。『小田原衆所領役帳』が編纂された永禄
          二年(1559)ごろまでには、「玉縄衆」と呼ばれる地元国人層らを中心とした地方軍団が形成され
          ていた。
           永禄四年(1561)、越後の長尾景虎が、関東管領上杉憲政を擁して小田原城へ攻め寄せた。
          しかし、1ヵ月に及ぶ包囲戦を経ても落城する気配はなく、景虎は攻城を諦めて鎌倉へ撤退した。
          鎌倉の鶴岡八幡宮において、景虎は憲政の養子となって関東管領を引き継ぎ、上杉政虎と改名
          した。並行して、政虎は玉縄城を攻めたが、このとき城主綱成の留守を預かっていた綱成の嫡男
          氏繁は、城を守り抜いた。これが、玉縄城が戦場となったことが確実な最初の例である。
           永禄十二年(1569)、甲相同盟の破綻に伴い、今度は甲斐の武田信玄が小田原城を囲んだ。
          『北条記』によれば、このとき信玄は玉縄城の西の御幣山砦を落としたものの、玉縄城について
          は無視して進軍したとされる。ただし、『北条記』にある武田軍の進軍ルートについては疑問も
          呈されており、実際に玉縄城の近くを素通りしたのかは定かでない。
           その後、氏繁が正式に家督と玉縄城主を継いだが、天正六年(1578)に逆井城(飯沼城)で
          没した。氏繁の嫡男氏舜が跡を継いだが、同十年(1582)までには病没したものとみられ、氏舜
          の弟氏勝が玉縄城主を継承した。
           天正十八年(1590)の小田原の陣に際し、氏勝は山中城の守将として赴いた。激戦の末、城
          は1日で落ち、氏勝は玉縄城へ退却した。この戦いでは、玉縄衆の重臣間宮康俊らが討ち死に
          している。氏勝は、今度は城を枕に玉砕する覚悟であったといわれるが、最終的には寄せ手の
          徳川家康の説得に応じて無血開城した。
           役後、家康が関東に移封となると、玉縄城には本多正信が入った。ただし、正信が玉縄城に
          住したり城を改修した記録はなく、実際の守備は水野忠守が行っていたともいわれる。正信は
          家康の側近として権勢を振ったが、玉縄藩の石高は1万石ないし2万石余に過ぎなかった。
           正信は元和二年(1616)に没したが、嫡男の正純は父とは別に小山藩3万石を領していた。
          寛永二年(1625)、大河内松平正綱が玉縄2万石余に封じられた。ただし、それ以前から玉縄
          領は正綱が治めていたともいわれ、正信没後の玉縄については不明な点が多い。正綱は城の
          麓に陣屋を構えて政庁としたとされ、早ければ正信死去の時点で山城としての玉縄城は廃城
          となったものと推測される。元禄十六年(1703)、正綱の孫の正久は大多喜藩へ移封となり、
          玉縄藩は廃藩となった。遅ければ、玉縄城はこのときまで存続していたことになる。


       <手記>
           玉縄城といえば、後北条氏を代表する拠点城の1つですが、残念ながらその知名度や規模
          に比して、残っている遺構は多いとはいえません。その最大の要因は、なんといっても本丸を
          まるまる占拠している清泉女学院にあるといえるでしょう。私立であるうえに女子高ときている
          ので、敷地内への立ち入りは厳重に警戒しているようです。詰の丸である諏訪壇は、破壊を
          免れて雑木林として残っているのに、近寄ることもできません。
           周辺も宅地化が進んでいますが、近年ようやく城に対する関心が高まってきたようで、諏訪
          壇から大手口とされる切通しを挟んだ南側の太鼓櫓と呼ばれる小ピークを中心に、緑地公園
          化が成されつつあるようです。現在のところ、正式な城址碑などはまだないようですが、太鼓
          櫓の麓にはイラスト付きの説明板が設置されています。太鼓櫓は、櫓台というよりは2〜3段
          に削平された中規模の曲輪で、その先の細尾根にも曲輪と堀切が続いているようです。
           東から登る登城路は七曲と呼ばれ、地元の方々によってきれいに整備されています。ただ、
          当時の七曲はルートが異なり、大手口の切通しを出ると、すぐに南へ折れて太鼓櫓の直下を
          スライドしていたそうです。現在も、切通しから南に目をやると、藪のなかにわずかに古道の
          認めることができます。
           太鼓櫓から西に進むと、陣屋坂という別の登城路と合流します。ここからさらに西に行くと、
          城宿と呼ばれる根小屋地域になります。陣屋坂は、麓に江戸時代の玉縄藩陣屋が置かれて
          いたからついたともいわれていますが、こちらの方面も遺構を確認することは困難です。
           さて、玉縄城は、本丸を中心にいくつもの支尾根を抱き込んで作られています。普通の中世
          城郭ならば、このうち2〜3本の尾根を利用して築かれるものですが、方々に延びる細尾根に
          堀切群を設けて切り離し、丘陵全体を城域とすることで大規模城郭と成しています。本丸は
          すり鉢状の広い空間で、周囲を土塁状に帯曲輪や詰の丸の諏訪壇が囲っており、さながら
          玉縄の目と鼻の先にある鎌倉のミニチュア版のような構造となっています。このような選地や
          縄張りは、後北条氏の城のなかではかなり珍しいように思われます。個人的な直感としては、
          玉縄城は築城当初から、将兵や物資の駐屯・集積地として企図されていたのではないかと
          考えています。

           
 太鼓櫓下の案内板。
太鼓櫓のようす。 
 
 太鼓櫓から下の腰曲輪を望む。
太鼓櫓下の旧七曲(藪の中)。 
 現在の七曲。
城宿のようす。 
 陣屋坂。


BACK