村岡山城(むろこやま) | |
別称 : 勝山城 | |
分類 : 山城 | |
築城者: 七山家一向一揆 | |
遺構 : 曲輪、堀、土塁、虎口、土橋 | |
交通 : えちぜん鉄道勝山駅からバスに乗り、 「村岡山公民館」下車徒歩15分 |
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<沿革> 天正二年(1574)、朝倉氏が織田氏に滅ぼされた後の越前国内で一向一揆が発生し、 その1つ七山家の一向一揆によって、村岡山に砦が築かれたといわれる。七山家(なな やまが)とは、滝波川上流北谷の河合、木根橋、小原、谷、中野俣、杉山、横倉の7ヶ村 を指す。 同年二月、周辺の一揆衆を加えた一向一揆勢は、村岡山城下で土橋信鏡(朝倉景鏡) および平泉寺門徒の軍勢と合戦に及んだが、敗れて壇ヶ城へ退いた。村岡山城も、この とき平泉寺方に奪われたとされる。 同年四月、七山家一向一揆衆が村岡山を急襲して城を奪回した。信鏡と平泉寺衆は 再び村岡山を攻撃したが、一揆勢の別導体が暮見谷から平泉寺を襲って火を放った。 これを見た平泉寺衆徒は狼狽し、一揆軍の反撃を受けて信鏡が討ち死にした。この勝利 を記念して、村岡山は勝山と呼ばれるようになった。 翌天正三年(1575)、越前一向一揆は本格的に平定に乗り出した織田信長によって 駆逐された。村岡山城で戦闘があったか否かは不明であるが、少なくとも組織的な抵抗 はなかったものと思われる。戦後、柴田勝家の甥とされる柴田義宣が村岡山(勝山)城主 となった。ただし『信長公記』によれば、原長頼が越前国大野郡に2万石を与えられ、勝山 城主となったとある。 天正五年(1577)、義宣は一向一揆の残党との戦いで命を落とし、やはり勝家の甥の 勝安(勝政)が義宣の養子となって跡を継いだ。同八年(1582)、勝安は平地の袋田村に 新たに城を築いて移り、地名を勝山と改めたとされる。村岡山城はこのとき廃城となった とされるが、前述のとおり一揆鎮圧後の勝山盆地の領有状況については、判然としない 点もある。 <手記> 福井県立恐竜博物館南側の独立山が村岡山城跡で、今は「御立山(みたてやま)」と 呼ばれています。南西麓の村岡神社から登山道が整備されていて、門前には説明板と 石碑もあります。 地図や写真を見てわかるとおり比較的緩やかな山で、山頂部も割と広さがあります。 その一隅に正方形の主郭を設け、堀を隔てて副郭が三方を囲っています。主郭の南東 隅は屏風折れになっていて、保存状況や整備具合も申し分なく、私ならずとも中世城郭 ファンなら歓声を上げることでしょう。 副郭の東側には枡形虎口を広げたような曲輪が付属し、その先は副郭の堀に沿って 回廊状の細長い曲輪が延びています。圧巻なのはその回廊曲輪下の斜面に施された 畝状竪堀で、樹木も整理されていることからすこぶる見学しやすくなっています。 一方の副郭西側は細尾根が延びているのですが、技巧的な東側に対して、こちらは 造作がやや単純な印象です。4本の堀切が断続的に穿たれ、現地の案内ではそれらの 間はすべて曲輪とされているのですが、はっきり曲輪形成されているのは尾根先端の やや広い曲輪のみで、それ以外は自然地形に近いといえます。すなわち第一義的には、 七山家があり加賀からの進入ルートでもある、東側からの攻撃を意識した造りになって いると推測されます。ちなみに、大きな見どころである畝状竪堀については、織田氏の 城造りにはあまり見られないことから、朝倉一族の土橋信鏡らが占拠していた短期間の うちに改修されたものではないかと、個人的に考えています。 |
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村岡山城跡の御立山を望む。 | |
村岡神社門前の説明板と碑。 | |
副郭から主郭土塁を望む。 | |
主郭南東隅の屏風折れの堀と土塁。 | |
主郭のようす。 左手は櫓台土塁。 |
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主郭北東隅の土塁と虎口跡。 | |
副郭内部の段築。 | |
副郭北東隅付近の土塁。 | |
副郭東辺の虎口。 | |
副郭東側の枡形虎口状曲輪。 | |
同曲輪の虎口。 | |
その先の回廊状の曲輪と副郭の空堀。 | |
回廊曲輪下の畝状竪堀。 | |
副郭西側の堀切と土橋。 | |
2条目の堀切。 | |
同3条目。 | |
同4条目。 | |
西側尾根先端の曲輪。 | |
同曲輪からの眺望。 |