明神山城(みょうじんさん) | |
別称 : なし | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 矢倉氏 | |
遺構 : 曲輪跡、堀、虎口 | |
交通 : JR紀勢本線新宮駅徒歩15分 | |
<沿革> 熊野七上綱の1つ矢倉氏の城とされる。七上綱とは、熊野別当に代わって熊野を統治した 7家のことで、矢倉氏は1500石を領していたとされる。矢倉氏の出自については不明である。 南北朝時代に鵜殿氏に改姓したとされるが、鵜殿城の鵜殿氏との関係も定かでない。また、 後に鵜殿へ移り住んだともいわれる。 天正年間(1573〜92)に堀内氏善の勢力が伸長すると、矢倉氏をはじめ、新宮行栄を除く 七上綱は氏善に屈服した(行栄は氏善に暗殺された)。氏善は、明神山のすぐ西麓に居館を 築いて移った。『紀伊続風土記』では明神山城を氏善の居城としていることから、『日本城郭 大系』では当城を堀内氏館の外郭の砦と推測している。この場合、明神山城が廃されたのは 慶長五年(1600)の関ヶ原の合戦で氏善が改易されたときということになる。 <手記> 新宮市街地のなかにこんもりと浮かんだ小丘が、明神山城址です。山頂へは、山の南中腹 を横断する道の脇から登ることができます。『大系』には遺構なし、『探訪ブックス 日本の城』 には堀切が残るとありますが、私の見たところ全体像を把握できるだけの遺構は、ひととおり 残っているように思いました。 基本としては、鉄塔が建っている山頂の主郭を中心に、堀切を隔てて北・南西・東の三方に 曲輪を展開する縄張りとなっています。主郭の北に位置する曲輪が副郭と思われ、さらにその 先には帯曲輪と腰曲輪が続いています。南西の曲輪は先端付近から藪がひどく、その先にも 曲輪があるかどうかは分かりません。 東側には、一段下りたところに城中最大と思われる細長い曲輪があります。この曲輪の中心 には、小さなストーンサークルのような四角い石列があります。なにかの遺構かと思いきや、 地元の方の話ではかつてここに田楽か何かの小店があったということです。あまりにも小さな スペースなので、曲輪の地形を変えるほどの店だったとは思えません。この曲輪の東端では 道が枡形に折れて下っていて、虎口跡である可能性が考えられます。この桝形の下で、副郭 下から延びる帯曲輪と合流します。 明神山城について、『大系』では堀内氏の外郭の砦であったのではないかと考察しています が、私も同様の印象を受けました。2万7000石を領した(実高6万石とも)堀内氏の居城がただ の方形館であったとはちょっと考えにくく、明神山城を詰城として整備したのではないかと推測 しています。 |
|
新宮城址より明神山を望む。 | |
主郭南西の堀より主郭を望む。 | |
主郭北の堀より副郭を望む。 | |
副郭下の帯曲輪(中央手前)より腰曲輪(中央奥)を望む。 | |
南西の曲輪。 | |
東側一段下の曲輪。 中央のストーンサークルは小店の跡。 |
|
東側曲輪東端の虎口跡。 |