堀内氏館(ほりのうちし)
 別称  : 堀内新宮城、堀内氏屋敷
 分類  : 平城
 築城者: 堀内氏善
 遺構  : 堀
 交通  : JR紀勢本線新宮駅徒歩20分


       <沿革>
           熊野領主堀内氏の居館である。堀内氏の祖先は熊野別当湛増とも源行家(新宮行家)とも
          いわれるが、詳しい出自は明らかでない。史料に現れるのは、16世紀の堀内氏虎からである。
          紀伊佐野の土豪であった氏虎は、勢力を北方へ伸長させ、天文年間(1532〜55)には内紛に
          乗じて次男楠若(弟とも)を熊野有馬氏へ養子に送り込んだ。
           天正二年(1574)に氏虎が死去すると、嫡子氏高は早世していたため、楠若が氏善と名乗り
          跡を継いだ。これにより、有馬氏は堀内氏に併呑されることとなった。氏善は、新宮の七上網
          (合議制で新宮を支配していた7家)を屈服させ、本拠を佐野から新宮へ移した。堀内氏館は
          このときに築かれたとされる。ちなみに、堀内氏館のすぐ北隣には、七上網のなかで最後まで
          氏善に抵抗した新宮行栄のがあった。
           織田信長が伊勢国を掌握すると、氏善は織田氏に従った。天正十年(1582)の山崎の戦い
          では羽柴秀吉に属し、戦後に7千石を加増された。同十九年(1591)、氏善は「熊野惣地」に
          任ぜられて2万7千石(実高は6万石に及んだとも)を領した。
           慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いで、氏善は西軍に属し伊勢方面軍に参加した。本戦での
          西軍敗北の報を受け、氏善は一旦新宮へ引き返したが、和歌山の桑山一晴の軍勢が近づく
          と逐電した。戦後、堀内氏は改易となり、紀伊国は浅野幸長に与えられた。浅野氏の一族で
          家老の浅野忠吉が新宮領主となり、忠吉によって丹鶴山に新たに新宮城が築かれたため、
          堀内氏の館は廃された。


       <手記>
           全龍寺一帯が堀内氏館跡で、門前に説明板が設置されています。全龍寺は、浅野氏転封
          後の新宮領主で紀州藩付家老の、水野重央の菩提寺でもあります。
           西辺と北辺、そして南辺の一部に堀跡が水路として残っています。江戸時代の古図には、
          寺の四周を堀が囲っているようすが描かれています。また、館の東側の明神山には詰城
          築かれていたとみられています。
           堀内氏館について(堀内)新宮城と呼んでいる文献も多いのですが、当時に新宮城という
          呼称が存在していた確証はみられず、詳細は不明です。ただ、3万石弱も領していた大名の
          居所に名が付けられていなかったとも考えにくいので、明神山の詰城とセットで「新宮城」と
          呼ばれていたのかもしれません。

           
 堀内氏館跡に建つ全龍寺。
西辺の堀跡の水路。 
 南西隅と南辺の堀跡。
北西隅と北辺の堀跡。 


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