長見山城(ながみやま) | |
別称 : なし | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 渡辺氏 | |
遺構 : 曲輪、土塁、堀 | |
交通 : JR芸備線吉田口駅徒歩20分 | |
<沿革> 毛利家重臣渡辺氏の居城とされる。安芸渡辺氏は嵯峨源氏・渡辺綱に始まる渡辺氏の一族と みられ、代々一字名を名乗っているが、詳しい系譜は明らかでない。毛利氏には南北朝時代に 従って安芸国に入ったとみられているが、長見山城の築城時期についても不明である。 大永四年(1524)、毛利幸松丸の早世により叔父の(多治比)元就が家督を継ぐと、坂広秀や 渡辺勝ら重臣層の一部が尼子氏と通じて、元就の弟・相合元綱の擁立を図った。しかし、動きを 察知した元就は先手を打って元綱を船山城に攻め滅ぼし、広秀および勝も誅殺された。次いで 長見山城も攻め落とされ、渡辺氏一族を討ち果たした渡辺七人塚が城山の北に残っている。 その後の長見山城については記録に見えない。勝の遺児は備後国人・山内直通を頼って落ち 延び、元服して通と名乗った。後に山内氏と誼と通じた元就は通の帰参を許し、通は天文十二年 (1543)の第一次月山富田城の戦いにおける撤退戦で元就の身代わりとなって壮烈な討ち死に を遂げた。これに感銘した元就は、渡辺の家を以後決して見捨てないと誓いを立て、通の遺児・ 長を重用している。ただし、通以降の渡辺氏の居城が長見山城であったかは定かでない。 <手記> 長見山城は、JR吉田口駅から戸島川を挟んだ南東側にある、名前の通り細長い独立丘上に 築かれています。とはいっても全山を城砦化しているのではなく、山頂部を含めた西半が城域と みられます。 南西麓の山田川を渡る橋のたもとから細道が延びていて、かつては主郭の観音堂まで通じて いたようですが、途中から荒れていてどこまで行けるかは不確かな感じでした。途中で左手に 上がる道があり、その上には大きな竪堀が延びていたのでこれを登りました。その先は、主郭の ある山頂部と、南西先端側の峰の間の堀切になっています。先端側の峰も曲輪形成されていて 土塁の痕跡も見られました。 そこから主郭へ向かうと、尾根筋には土塁のような地形がありますが、曲輪形成は曖昧です。 頂部は主郭とその下の帯曲輪状の副郭を基調としています。主郭は前後に細長く、2つの区画に 分かれているようにも見えますが、明瞭な仕切りはありません。その北東側の区画に観音堂が あり、脇には城址碑も建てられています。 主郭の北東先端側にはさらに2つほど腰曲輪が付属し、その先の鞍部はやや広い区画に削平 されていました。根古屋や番所、あるいは小さな屋敷など何らかの施設があったと思われます。 前述の通りその先にも細峰が続いていますが、この削平地が城域の北東端のようです。一応、 見通しの利くところまで尾根を歩いてみましたが、鹿の群れが逃げていくばかりで明瞭な遺構は 見られませんでした。余談ですが安芸高田は本当に鹿が多く、城跡での遭遇率は4割くらいでは なかったかと思います。 |
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南西から長見山城跡を望む。 | |
主郭部と南西先端側の峰の間の竪堀。 | |
竪堀の上の堀切と南西側切岸。 | |
南西側の峰の曲輪。 | |
主郭へ続く峰の中途の土塁状地形。 | |
主郭下の副郭。 | |
同じく副郭から主郭を望む。 | |
主郭南西側のようす。 | |
主郭北東側と観音堂。 | |
観音堂脇の城址碑。 | |
主郭北東側の腰曲輪。 | |
同上。 | |
旧登城口か。 | |
主郭部北東鞍部の削平地。 | |
同上。城域北東端とみられます。 | |
その先の細峰のようす。 | |
同上。 | |
逃げていく鹿たち。 | |
城山からの眺望。 |