船山城(ふなやま)
 別称  : なし
 分類  : 平山城
 築城者: 相合元綱か
 遺構  : 曲輪、堀、土塁
 交通  : JR可部線可部駅からバスに乗り、
      「安芸高田市役所前」下車徒歩15分


       <沿革>
           毛利弘元の三男で元就の異母弟にあたる元綱は、相合を領して相合四郎を名乗っていた。
          船山城は元綱の居城とされるが、元綱が築いたのか以前からあったのかは定かでない。
           大永三年(1523)、元就・元綱兄弟の嫡兄・興元の遺児・幸松丸が早世すると、重臣に推挙
          されて元就が跡を継いだ。しかし、これに不満を抱いた坂広秀・渡辺勝らは尼子経久の支援
          を受け、元綱の擁立を図った。翌四年(1524)四月、動きを察知した元就は機先を制し、元綱
          を船山城に襲って攻め滅ぼした。元就と元綱の兄弟仲はもともと悪くなかったといわれ、遺児
          は助命されて後に備後国敷名郷を与えられて敷名元範と名乗っている。
           その後の船山城については定かでない。


       <手記>
           郡山山系の西端に突き出た小峰が船山城跡です。東は細声峠を挟んで天神山城や船山
          神社があります。細声峠には、元就方が攻めた際に声を落とすよう命じたからという言い伝え
          があるようですが、信憑性が高いとは言えないように思います。個人的には、細声は「細越」
          の転訛ではないかと感じます。
           峠に説明板があり、その脇の墓地付近から踏み分け道が付いていました。城内は頂部尾根
          の中ほどに堀切が1条あるほかは、削平地と切岸の段築状の曲輪群から成っています。頂部
          は東側の曲輪の方が大きいものの、土塁を伴う西側の曲輪が主郭とみられます。
           船山城が元綱の居城であるという確証はないようですが、そうであったとしても規模が小さい
          ため、平時の居館は別にあったはずです。元綱が誅された後については、天文九年(1540)の
          郡山合戦(吉田郡山城の戦い)の際に陶隆房軍約1万が天神山に陣を移したものの、船山城
          に関する記述がないため、このときには廃城となっていたとも考えられます。他方で、郡山城の
          西の出城として、郡山全山に拡張された後に再び整備された可能性もあるでしょう。

 船山城跡(左)と天神山城跡(右)。
細声峠の説明板。 
 城内の帯曲輪および切岸。
同じく腰曲輪群。 
 同じく帯曲輪と頂部曲輪の切岸。
頂部曲輪の墓地。 
 東側頂部曲輪のようす。
頂部尾根の堀切。 
 西側頂部曲輪のようす。主郭か。
主郭西端の土塁。 
 主郭の土塁。


BACK