長沼南古館(ながぬまみなみふる)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 長沼氏か
 遺構  : 土塁、堀
 交通  : JR東北本線須賀川駅からバスに乗り、
      「長沼車庫」下車徒歩10分


       <沿革>
           小山政光の次男長沼宗政の曽孫にあたる長沼宗秀が、正和三年(1314)に所領の
          ある岩瀬郡に下向して長沼南古館に住し、後に長沼北古館を築いて移ったと伝わる。
          ただし、長沼氏の一族が移住したのは一般に陸奥国長江荘とされており、長沼氏が
          長沼を拠点としていたという裏付けはない。
           昭和六十二年(1587)の発掘調査では、主として15世紀中ごろから16世紀初頭に
          かけての出土品が検出されている。


       <手記>
           北古館が圃場整備によって消滅してしまったのに対し、こちらは主郭の土塁と堀が
          良好に残されています。発掘調査では、さらに北と東に出郭が確認されたそうです。
          主郭は北西部が張り出し状になっており、このような縄張り上の工夫や複数の曲輪
          などは、南北朝時代以前の開発領主には不要なはずです。出土品の傾向からみて
          も、少なくとも最終的な姿は戦国時代のものと推定されます。
           そもそも、長沼氏が下向していたかどうかも含めて、南古館・北古館が鎌倉時代の
          館跡とするのは違和感があります。とくに南古館は川と山が迫って平地がすぼまった
          位置にあり、水利や耕地の確保に寄与するところがほとんどありません。この城館が
          役に立つとすれば、それは会津方面から長沼に入る際に、必ず脇を通過しなければ
          ならないという交通および軍事上の目的においてと考えられます。
           したがって、南北朝時代を経て岩瀬郡が二階堂氏の勢力圏に定まったことにより、
          同氏によって築かれたとみるのが妥当なように思います。

           
 長沼南古館跡を西から望む。
北西隅の堀と土塁。 
 北辺の堀と土塁。
西辺のようす。 
 館跡の南側。南に出郭があったとする記述は
 目にしていないので、ここは城外のようです。
その南側農道沿いに建つ説明板。 


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