長沢東城(ながさわひがし) | |
別称 : 家老屋敷城、菅谷砦 | |
分類 : 山城 | |
築城者: 不詳 | |
遺構 : 曲輪、堀、土塁、虎口 | |
交通 : JR高山本線速星駅からバスに乗り、 「国立富山病院」下車徒歩30分 |
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<沿革> すぐ隣の峰に長沢西城があり、単に「長沢城」というと、一般には西城を指す。富山藩士安達 淳直・直章による『長沢之旧塁図』には曲輪や屋敷跡の存在が記されているが、東城そのもの に関する同時代の史料は見つかっていない。そのため、西城より後に築かれたと推測されて いるが、詳細は不明である。 <手記> 長沢東城と西城は、共に辺呂川の渓谷に望んで突き出た峰上の城です。谷を挟んだ南側の 丘陵には、水田が広がり幹線道路も走っていますが、谷底はワイルドな自然に埋もれている ようで、こちらからのアプローチは不可能そうです。城跡へは婦中ふるさと自然公園の溜池脇 の駐車場からあやめ園を抜け、古洞池を一周する遊歩道を進んで裏手から入れます。両城の 折れ口とも案内があるので、迷うことはないでしょう。 東城は大きく2つのピークに跨っており、最初に行き着く奥側のピークには2段に削平された 曲輪がみられます。そこから南側のピークへ向かう途中に、竪土塁があるのも特徴です。 南側のピークには城内最大の面積をもつ方形の主郭があり、その下に浅い土塁で囲まれた 区画がだんご三兄弟のように3つ縦に並んでいます。この3連区画は曲輪と呼ぶほどの防御性 は感じられず、家老屋敷の別称のとおり屋敷や根古屋など何らかの施設が置かれていたもの と推測されます。他方で、主郭の東と南の虎口はいずれも喰い違いに2か所のゲートを持ち、 とくに南側は張り出し曲輪を配して枡形状を呈しているのが印象的です。 総合すると、虎口や竪土塁には技巧性が見られるものの、3連区画をはじめ各曲輪の配置や 形状には城というより寺院に近い感じを受けました。西城の歴史は南北朝時代に始まるという ことから、両城とも元は山岳寺院か何かで、東城も西城からそう離れていない時期に城として 取り立てられたのではないかと拝察されます。南東1.5kmほどの富崎城付近が比較的古くから 発展していたのに対し、長沢城周辺は急に山深くなるエリアであるのも、山岳寺院があったの ではないかという推測の傍証となるでしょう。 他方で、現存する遺構は明らかに戦国時代に完成されたものです。経営上の発展性のない この城を上杉氏以降の支配者が使用したとは考えにくいため、最終的な改修者は神保氏だと 思われます。現地説明板にもある通り、尾根伝いに西進すると谷戸を1回挟んで神保氏後期の 居城である増山城に至ります。また、富崎城には神保家重臣水越氏が拠っており、その麓の 本覚寺は神保氏とつながりの深い一向門徒の拠点だったとされることから、増山城と富崎城の 連絡拠点として重要視されたものと考えられます。 |
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現地説明板。 | |
北側のピークの曲輪。 | |
その下段の曲輪。 | |
北側のピーク中腹の竪土塁。 | |
南側の峰の3連区画。 | |
同上。 | |
3連区画側から主郭への虎口。 | |
虎口と主郭の土塁。 | |
主郭のようす。 | |
主郭南側虎口と脇の張り出し曲輪。 | |
張り出し曲輪のようす。 | |
枡形状の虎口。 | |
最南端の枡形状虎口。 | |
虎口を形成する土塁。 | |
虎口から3連区画への堀底道。 |