長沢西城(ながさわにし)
 別称  : 長沢城
 分類  : 山城
 築城者: 不詳
 遺構  : 曲輪、堀、土塁、虎口
 交通  : JR高山本線速星駅からバスに乗り、
      「国立富山病院」下車徒歩35分


       <沿革>
           すぐ隣の峰に長沢東城があるが、単に長沢城というと一般には西城を指す。応安三/正平
          二十五年(1370)三月十六日、南朝方の元越中守護である桃井直常は嫡男の直和を長沢に
          派遣したが、直和は幕府方の越中守護斯波義将との戦いに敗れ討ち死にした(長沢の戦い)。
          長沢城はこのときには築かれていたともいわれるが、確証はない。また、戦国時代に上杉家臣
          となった森寺城主長沢光国に代表される長沢氏は、一説には当地の長沢を本貫とするとされる
          が、やはり確証はない。
           江戸時代に編纂された『三州志』や『肯搆泉達録』には、戦国時代末期に神保家臣寺島職定
          の養子とされる寺島牛之助(盛徳)が居住したとする伝承が載せられている。牛之助は兄弟の
          小島甚助(国綱)と共に富崎城へ立て籠もって織田家臣佐々成政に抵抗したが、敗れて落ち
          延びた。


       <手記>
           長沢東城と西城は、共に辺呂川の渓谷に望んで突き出た峰上の城です。谷を挟んだ南側の
          丘陵には、水田が広がり幹線道路も走っていますが、谷底はワイルドな自然に埋もれている
          ようで、こちらからのアプローチは不可能そうです。城跡へは婦中ふるさと自然公園の溜池脇
          の駐車場からあやめ園を抜け、古洞池を一周する遊歩道を進んで裏手から入れます。両城の
          折れ口とも案内があるので、迷うことはないでしょう。
           西城は、さすまた状に割れた尾根の間の谷筋を均して主郭を形成しているのが大きな特徴
          です。とはいうものの、私が訪れたときは主郭まで行けませんでした。城内に入ったあたりで、
          周囲の木々にクマが付けたと思しき生々しい引っ掻き傷が見られたためです。最後尾の堀切
          や曲輪を越え、城内最高所にあたる主郭背後の曲輪と伝のろし台まで来たところで寒々しい
          気配を感じ、一目散に撤収しました。
           目にできた遺構を見る限りでは、上杉氏以降の改修は受けていないように思います。また、
          谷筋を埋めて主郭とする手法は城館としては異質で、隣の東城の曲輪配置も、城というよりは
          寺院のような印象を受けます。さらに、長沢城は富崎城などと異なり、所領の支配や経営には
          向かない奥地に築かれている点も気になるところです。
           これらのことから長沢城は、東西両方とも山岳系の寺院か何かを南北朝時代に取り立てた
          城砦であったと推察されます。現存する遺構が戦国時代に完成されたものであることは明白
          ですが、最終的な改修者はおそらく神保氏でしょう。東城の現地説明板にもあるとおり、尾根
          伝いに西進すると谷戸を1回挟んで神保氏後期の居城である増山城に至ります。また富崎城
          には神保家重臣水越氏が拠っており、その麓の本覚寺は神保氏とつながりの深い一向門徒
          の拠点だったとされることから、長沢城が増山城と富崎城の連絡拠点として重視されたとする
          推測は充分に成り立つでしょう。
           他方で、経営上の発展性のないこの城を、上杉氏以降の支配者が使用したとは考えにくい
          でしょう。寺島牛之助が反乱を起こした際に、一時的に支砦として再利用された可能性はある
          としても、増山城が攻め落とされて以降は、顧みられることはなかったと思われます。

           
 長沢西城跡説明板。
最後尾の堀切。 
 最後尾の曲輪。
同曲輪の土塁。 
 主郭背後峰上の曲輪。
伝のろし台。 
 クマによる爪痕か…。
同上。 


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