長山城(ながやま) | |
別称 : 永山城 | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 長山知幹 | |
遺構 : 曲輪、堀、土塁、虎口等 | |
交通 : JR鹿島線潮来駅よりバス 「永山」バス停下車徒歩15分 |
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<沿革> 大掾氏一族長山氏の居城である。長山氏は吉田流大掾氏に属し、小高幹平の次男 与一郎知幹にはじまるとされる。知幹は鎌倉時代中期の人物とされるが、詳しい築城 年などは明らかでない。 7代宗幹は、宗家の大掾満幹に従って応永二十三年(1416)の上杉禅秀の乱などで 活躍し、長山氏の最盛期を築いたとされる。 大永二年(1522)、領地を接する同族の島崎利幹(安定・安国)に攻められ、長山城 は落城した。城主の長山幹綱は自害したが、子の政幹は佐竹義篤を頼り落ち延びた。 このとき、島崎軍は長山領との境の川を夜に越えて攻め寄せたため、この川を夜越川 (よろこしかわ)と呼ぶようになったと伝わる。その後の長山城については不明である。 <手記> 長山城は、夜越川に突き出た舌状の丘陵を利用した城です。現在も三方は水田と なっていて、当時も深田ないし湿地帯であったと推測されています。 現在、城の西側三分の一ほどが、道路と公園によって削られています。その道路に 面した法面に、石碑と説明板が設置されています。しかし、こちら側からは藪に覆われ ていて、城跡には入れそうにはありません。 どうやって登ったものかと城山の麓を一周したところ、南側斜面から本丸と二の丸の 間の堀切に通じる獣道を発見しました。これを登ると、最大の見どころと思われる巨大 な堀切が目の間に現れます。この左手が二の丸で、右手が本丸となり、両者とも曲輪 のようすがよく残っています。本丸の先には桝形の虎口があり、もうひとつの見どころの ようなのですが、藪がひどくて到達できませんでした。 全体として、規模が大きくシステマティックな構造をした城跡と見受けられます。説明 板にある略測図の通りとすれば、あるいは佐竹氏によって堀之内大台城の支城として 取り立てられ改修された可能性もあるように思われます。 |
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長山城址碑。 | |
長山城址近望。 手前から3本目の電柱付近から登ることができます。 |
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本丸と二の丸の間の堀切。 | |
同上。 | |
二の丸のようす。 分かりづらいですが土塁で囲まれています。 |