堀之内大台城(ほりのうちおおだい)
 別称  : 大台城
 分類  : 平山城
 築城者: 佐竹義宣
 遺構  : なし
 交通  : JR鹿島線潮来駅よりバス
       「牛堀郵便局前」バス停下車徒歩15分


       <沿革>
           天正十八年(1590)の小田原の役に際し、行方郡に蟠踞していた大掾一族の諸領主は、宗家
          大掾氏とともに豊臣秀吉のもとへ参陣しなかった。戦後、大掾氏一族の領地は佐竹氏に与えられ、
          佐竹義重・義宣父子は行方・鹿島両郡のいわゆる「南方三十三館」と呼ばれる諸領主を太田城
          誘殺した。佐竹氏は、軍を南下させ、主なき両郡の諸城を次々と落としていった。
           文禄元年(1592)、義宣は常南支配の新たな拠点として、大掾氏の有力氏族島崎氏の居城で
          あった島崎城の隣地に、新城の築城を開始した。これが堀之内大台城である。ただし、堀之内と
          いう地名から、これ以前すでに島崎氏の支城が営まれていたともいわれる。文禄の役などを挟み、
          城は慶長元年(1596)に完成したとされる。
           しかし、完成からわずか6年後の慶長7年(1602)、佐竹氏は出羽へ転封となり、堀之内大台城
          も廃城となった。

       <手記>
           堀之内大台城は、夜越川下流の沖積地帯にポッコリと浮かぶ半独立丘上の城です。現在城跡は
          牛堀中学校の敷地となっています。遠目に見てやけに低い丘だなと思っていたら、後で知ったこと
          には、学校建設と同時に山砂採取も行われ、もとの山の高さの三分の一程度に削られてしまった
          そうです。したがって、遺構は文字通り削り取られて消滅してしまったようです。中学校の校門前に
          申し訳程度の城址碑が設置されています。
           学校建設を前に発掘調査がなされ、三重櫓や枯山水庭園の跡などが検出され、それまでの周辺
          諸城にはない豪壮な施設が多数建設されていたことが明らかとなりました。佐竹氏が中央で学んだ
          技術を取り入れ、旧大掾氏領の領民に魅せつける目的があったものと考えられています。
           こうした貴重な遺構を保存すべく、学者や住民の間で運動が起きたそうですが、先述のごとく工事
          によって城跡は徹底的に破壊されました。このときの発掘には、日本城郭史学会がかかわっていた
          らしく、学研の歴史群像シリーズ『戦国の城』の堀之内大台城の項で同会代表の西ヶ谷恭弘氏は、
          ほとんど恨み節のような口調で無念さを綴っています。全体的に中立性が保たれているようにみえる
          同書のなかで際立って特異な文体になっています。
           同じ茨城県ではあるものの、まったく離れた坂東市にある逆井城址には、なぜか堀之内大台城の
          発掘結果を基にした主殿が復元されています。逆井城址もきちんとした発掘調査がなされた城跡で
          あり、その結果をもとに逆井城の主殿を復元することはできたと思われます。説明板をみると、両城
          が同時代の城だからと書かれていましたが、両城は1秒たりとも並び立っていたことはなく、明らかに
          おかしいといわざるを得ません。おそらく城郭史学会の意向で建設されたものと思われますが、ここ
          までくると執念を越えて怨念のようにすら感じられ、やり過ぎ感が否めません。

           
 堀之内大台城址遠望。
牛堀中学校門前の城址碑。 
 逆井城址公園に復元された堀之内大台城の主殿。


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