名子氏館(なごし)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 名子氏
 遺構  : なし
 交通  : JR飯田線伊那大島駅徒歩15分


       <沿革>
           在地領主名子氏の居館跡とされる。名子氏は信濃源氏満快流の名族・片切氏の分流で、
          片切為行の子・景重に始まるとされる。景重は源為義・義朝父子に仕え、平治元年(1160)
          の平治の乱で壮絶な討ち死にを遂げた(『保元物語』)。これにより片切氏は一時没落し、
          所領は平家に没収されたが、景重の弟・為遠の孫で、景重の養子となった為安(為康)が
          寿永三年(1184)に源頼朝から旧領を返還された。名子氏は景重の実子が継いだとされる
          が、館がいつごろ建造されたのかは明らかでない。
           その後の名子氏については不明である。ある時期に北西の段丘上に名子城を築き、詰城
          としたといわれるが確証はない。
           ちなみに、賤ヶ岳の七本槍で知られる近江出身の片桐且元は、名子景重の子孫を称して
          いる。


       <手記>
           名子氏館は、天竜川の第一段丘上に広がる通称「名子の平」の中ほどに位置しています。
          上の図に示した箇所に標柱と説明板があり、それによると字名等から80m四方の方形館で
          あったとみられているようです。
           現況は果樹園などとなっていて、北辺に小沢が流れ、東辺は段差面となっているものの、
          これといった遺構は見受けられません。北西の名子城とはやや離れており、両者を単純に
          平時の居館と詰城の関係とみるのは早計に感じます。名子氏がある程度存続したとして、
          戦乱の時代に入って名子城を築いてからは城内ないし山麓に館を構えて、こちらは廃したか
          一族ないし家臣を配したのではないかと、個人的には推察しています。

           
 名子氏館跡標柱と説明板。
東辺の段差面。 
 北辺の小沢。
館跡付近から名子城跡を望む。 


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