中久喜城(なかくき) | |
別称 : 栃井城、岩壺城、中岫城、亀城 | |
分類 : 平城 | |
築城者: 小山氏か | |
遺構 : 曲輪、土塁、堀、虎口 | |
交通 : JR小山駅よりバス。「中久喜南」バス停下車徒歩5分 | |
<沿革> いつ頃築かれたのかは諸説あり定かでない。もっとも古いものでは、藤原秀郷流 小山氏初代小山政光が平安時代末期に築いたとする説がある。 南北朝時代の天授六/康暦二年(1380)に勃発した小山義政の乱に際し、義政 が拠点とした5つの城のうち「岩壺城」を、中久喜城に比定する説が有力である。 義政、次いでその子若犬丸が鎌倉公方足利氏満の追討を受けて自害するに及び、 小山氏の嫡流は途絶えた。しかし、名族小山氏の断絶を惜しんだ鎌倉府により、 同族の結城基光の次男泰朝をして、家名復興が許された。結城は小山の隣領で あり、中久喜はその境目に位置しているが、この後しばらく中久喜城が存続したか どうか、またしたとすれば結城氏・小山氏どちらに属していたのか、明らかでない 時期が続く。 天正十八年(1590)、関東に入封した徳川家康の子秀康を養子とした結城晴朝 が、「中久喜栃井城」に隠居したとする記述が『結城御代記』にみられる。同書は 嘉永五年(1852)の成立であるため信憑性には留保が必要であるが、事実とすれ ば、中久喜城はこの時までには結城氏の所有に帰していたことになる。ちなみに、 晴朝は小山高朝の子で結城政勝の養子となり、高朝は政勝の弟で小山政長の 養子となったものである。 関ヶ原の戦い後の慶長六年(1601)、結城秀康は越前国北ノ庄67万石へ加増・ 転封となった。これにより、中久喜城も廃城になったものと推測されている。 <手記> 中久喜城は江川と西仁連川の合流点に伸びる舌状台地の先端に築かれた城 です。1994年に、すでに国史跡に指定されていた祇園城と鷲城に追加される形 で、「小山氏城跡」として国の史跡になっています。 城内をJR水戸線が貫通していて、城跡が「真っ二つに分断」されているなどと いった記述をしばしば目にします。ですが、個人的に訪れた感触としては、主郭の 張り出し部が切り離されているだけで、見るべき遺構は十分に残されているように 感じました。鉄道が貫通してこの程度で済んでいるなら、むしろ有難いと思うべき なのではないでしょうか。 その切り離された張り出し部の角に、城址碑と説明板が置かれています(上の 地図の緑点付近)。肝心の張り出し部の堀と土塁は、よく残っていることが分かる ものの、藪がひどいため写真には起こせません。せっかく国の史跡なのですから、 藪くらい刈ってもらっても罰は当たらないような気がします^^; そこから線路沿い方面に東へ進むと、踏切があります。その北側は字万年寺と いうそうで、今では畑地ですが、外郭部の中では比較的城跡っぽい雰囲気を醸し 出しているように感じます。踏切を渡ると、主郭の堀外を迂回するように南から西 へと歩いて行けます。途中から林の中へと突入しますが、道ははっきりと続いて います。しばらく主郭の土塁沿いに進むと、櫓台状の大きな土塁が現れ、その脇 が虎口となっています。ここから上がると主郭に出るのですが、近年までやはり 畑であったとされる郭内は、放棄されてしばらく経っているらしく、藪化が進行して いて踏査は困難となっていました。 中久喜城は規模こそそこまで大きいとはいえませんが、少なくとも主郭の形状 には戦国時代後期の改編がみられます。小山氏と結城氏どちらに改修を受けた ものかは分かりませんが、どちらが所有していたとしても境目の城には変わりは なく、それなりに重要な拠点であったものと推測されます。 |
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城址碑と説明板。 | |
主郭張り出し部の堀。 | |
主郭の虎口。 | |
主郭のようす。 | |
主郭の櫓台状土塁。 | |
主郭南東隅付近の土塁が凹んでいる箇所。 | |
字万年寺のようす。 |