勝山城(かつやま) | |
別称 : なし | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 油川信恵か | |
遺構 : 曲輪、土塁、堀、虎口 | |
交通 : JR中央本線・身延線甲府駅よりバス 「中村入口」バス停下車徒歩5分 |
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<沿革> 明応年間(1492〜1501)に、武田宗家を継いだ武田信縄と、信縄の父信昌および信縄 の弟油川信恵の間で甲斐国内を二分する内乱が発生したが、明応の大地震を機に一度 和睦をみていた。しかし、永正二年(1505)に信昌が死去すると、信縄・信恵兄弟の間で 再び抗争状態となった。勝山城は、この2度目の抗争時に、信恵の拠点の1つとして登場 する。ただし、勝山城がこのときに新築されたのか、すでにあった城に拠ったのかは定か でない。 勝山城は、甲斐と駿河を結ぶ中道往還のすぐ脇にあり、今川氏や北条氏の支援を受け ていた信恵方にとって欠くことのできない要衝であった。永正四年(1507)に信縄も死亡 すると、宗家の家督は信縄の嫡男信直(後の信虎)が継いだ。信恵は、反信直の国人衆 を糾合し、勝山の東の坊が峰周辺で信直と合戦に及んだが敗れ、信恵はじめ信恵の3人 の子、信恵の弟岩手縄美、武田氏の有力支族である栗原昌種など、主だった武将の多く が討ち死にした。この1戦で、信直は武田家の内紛にピリオドを打った。このとき勝山城 で攻防戦があったかは不明である。 永正十二年(1515)、武田氏庶流の有力国人大井信達が信虎に反旗を翻すと、大井氏 を支援する今川氏親が2千の兵を送り、勝山城に駐屯させた(『宇津山記』)。翌十三年 (1516)九月には、今川軍は再び甲斐へ侵入して万力(山梨市)で武田勢と戦った(万力 合戦)。このときは、おそらく吉田城を拠点としたものと思われる。今川氏の甲斐への介入 は同十四年(1517)に信虎と信達の間で和議が成立するまで断続的に続けられたようだ が、勝山城がこの間ずっと今川氏の支配下にあったのかは定かでない。 『高白斎記』によれば、大永元年(1521)に福島氏(福島正成といわれるが確証はない) が侵攻した際にも、勝山城が拠点として使われたとみられており、「十一月十日敵駿河衆 勝山ヘ移ル」とある。この戦いのさなかに要害城で誕生したとされるのが、後の武田信玄 である。 天正十年(1582)の天正壬午の乱に際し、中道往還から甲斐へ侵入した徳川家康勢に よって、再び拠点として取り立てられた。『家忠日記』には「十一月七日勝山取出普請」と あり、『甲斐国志』によれば服部半蔵正成と伊賀組が守備に当たったとされる。ただし、 乱自体は十月に徳川氏と北条氏の間で和議が成立して終結しており、十一月の普請は、 戦闘用というよりも甲信平定に向かう徳川軍の中継基地としてのものであった可能性も 考えられる。 廃城時期については詳らかでないが、家康が甲信州の切り取りを完了してからまもなく のことと推測される。 <手記> 勝山城は、笛吹川に臨む小高い独立丘を利用した城です。現在城跡は、東半分ほどが 農地となっており、もう半分は藪と化しています。かつては山麓をぐるりと堀が巡っていた と考えられています。 城跡へは、南東麓から農地を縫って登ることができます。しばらくは果樹林が続くため、 城内なのかどうなのかよく分からない感じですが、山腹の中ほどで虎口状の道の折れが あり、ようやく城跡らしさを感じることができます。この虎口の先には勝山城を詠みこんだ 俳句を記した石碑があり、これが城跡を示す唯一のものとなります。旧中道町では俳句 を奨励していたのか、同様の石碑を至る所で目にします。ちなみに、その俳句では「攻め るにかたし」と詠まれていますが、勝山城は独立丘とはいえあまりに緩やかで、お世辞 にも堅い城とは呼べないように思います。 虎口から見て石碑と反対側にある畑地は、もっともそれと分かりやすい曲輪の1つです。 とくに、曲輪の山側にはもっとも明確な堀跡があります。この堀のさらに山側にももう1つ 藪に埋もれた堀がカーブを描いて残っており、二重堀となっていたことが分かります。 石碑のあるところもやや張出した曲輪となっており、その下にはこちらもわりとはっきり した帯曲輪が見受けられます。虎口から奥に進むとまもなく山頂となり、ここが主郭だと 思うのですが、周囲が高い藪に覆われていることもあり、城内でもっとも不明瞭なところ となっています。北側の藪の切れ目からは、前方にさえぎるものがないので甲府盆地を 一望でき、この点が勝山城にもっとも期待されたところだったものと推測させます。 |
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勝山城址近望。 | |
城址碑(?)。 | |
頂上付近のようす。 | |
腰曲輪脇の空堀。 | |
腰曲輪。 | |
カーブを描く空堀。 | |
石碑のある曲輪下の帯曲輪。 | |
西側中腹の帯曲輪。 |