中尾城(なかお)
 別称  : 中尾塁
 分類  : 平山城
 築城者: 武田信光か
 遺構  : 不詳
 交通  : JR中央本線韮崎駅よりバス
       「中尾」バス停下車

       <沿革>
           『甲斐国志』によれば、里人の間では源清光の塁と伝わり、天正十年(1582)の天正
          壬午の乱に際して増築されたとされる。『北巨摩郡誌』によれば、武田信光の居城と
          され、武田信玄の時代に小幡又兵衛昌盛が拝領したとされる。信光は清光の孫で、
          源頼朝に従って活躍した人物である。
           『日本城郭大系』によれば、中尾城を『妙法寺記』にみられる「浦ノ城」に比定する説
          があるとするが、証拠はない。浦ノ城とは、浦今井氏の居城という意味で、一般には
          獅子吼城に比定される。


       <手記>
           中尾城は、塩川と須玉川の河岸段丘に挟まれた細い尾根上にあったとされる城砦
          です。現在、城跡は工場や水田となり、遺構はほぼ壊滅しているということです。
           『大系』によれば、工場の南に堀か土塁の跡と思しき細長い水田があるとのことです
          が、その後さらなる土地改良がなされたのか、それらしきものは見当たりませんでした。
          ただ、工場とは道路を挟んだ東側の河岸の際に、取り残されたような耕地とその背後
          の段差があります。あるいは、これが『大系』にいう堀と土塁の跡で、これを工場側に
          延長した先に、件の細長い水田があったのかなと拝察されます。
           個人的な直感として、中尾城はかなり古いタイプの城、とくに南北朝時代ごろまでに
          好まれた選地のように思われます。したがって、戦国時代まで存続していたとしても、
          規模は大したものではなかったのではないかと考えています。天正壬午の乱に際して
          取り立てられたとすれば、改築者は北条氏ということになると思われます。これは十分
          あり得る話で、とくに北条氏直が本陣とした若神子城と、穂坂路を通じた兵站の要衝
          である獅子吼城はお互いに直接連絡することができず、その中継点として、中尾城は
          同乱で重要な役割を得たのではないかと考えられます。

           
 中尾城址周辺現況。
塩川河岸側の耕地と段差。 
堀および土塁跡か。 


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