若神子城(わかみこ)
 別称  : 若神子古城、若神子大城
 分類  : 山城
 築城者: 源義光か
 遺構  : 曲輪跡、堀、土塁
 交通  : JR中央本線韮崎駅よりバス
       「古城入口」バス停下車徒歩10分


       <沿革>
           源義光(新羅三郎)によって築かれたとの伝説があるが、確証はない。『甲斐国志』によれば、義光
          の三男義清が建立した正覚寺の寺記に、義清が当地に住していたことが記されているという。ただし、
          城がそのころすでに築かれていたかは不明である。
           戦国時代には、武田氏によって諏訪や佐久への進軍や情報の中継点として利用されていたといわ
          れる。しかし、一次史料からは確認できないため、どの程度使用されていたのかは詳らかでない。
           史料上確実に現れるのは、天正十年(1582)の天正壬午の乱においてである。本能寺の変後の
          旧織田氏領の空白地帯を巡る争いのなかで、佐久から甲斐へ入った北条氏直が若神子城に本陣を
          置いた。およそ4か月の徳川家康との対峙の末、補給線を絶たれた北条軍は和睦を結んで帰国した。
           北条軍の撤収により、役目を終えた若神子城は廃城となったものと思われる。


       <手記>
           若神子城は、西川と甲川の合流点に突き出した丘陵の先端に築かれた城です。城の西側にも谷川
          が流れ、三方が急峻な斜面となっています。東側眼下を佐久往還が縦走し、江戸時代には若神子宿
          が置かれていました。従って古来より交通の要衝であったと推測されます。
           城跡は現在、須玉町ふるさと公園として整備されています。若神子城は、大きく分けて公園となって
          いる本城の他、北城南城の3つから成っています。この場合は、本城を若神子古城や若神子大城と
          呼びます。公園には、地続きの北側に駐車場があり、ちょうど搦手にあたるとのことです。
           全体的印象として、公園としてはよく整備されているものの、史跡としては遺構の残存状況が必ず
          しも良いとはいえません。公園としては造成されていない、先端の主郭近辺がもっとも遺構が良好に
          残っているように思われます。ここには土塁および腰曲輪跡が見られます。その先に少し下ったところ
          に、大手口とされる虎口跡があります。大手虎口には宿借石と呼ばれる巨石があり、この脇に大手門
          が設けられていたとされています。ただ、個人的には、一般的な築城の定石からして、大手と搦手が
          逆のようにも思われます。
           主郭から堀を挟んだ北側には、広い面積をもつ二の郭(と思しき曲輪)があります。この曲輪の北端
          からは堀跡が検出され、保存整備の上公開されています。説明板には薬研堀と書かれていますが、
          より特徴的なのは後北条氏のお家芸である畝が設けられている点です。ですから薬研堀であるという
          よりも畝堀であるという方が適切かな、と感じました。また、二の郭の東側には腰曲輪が付随し、ここ
          には復興された「つるべ式狼煙台」が置かれています。上からの景色は抜群に良さそうですが、残念
          ながら登ることはできないようです。
           駐車場のすぐ脇には、搦手の備えと呼ばれるこんもりした土盛りがあります。かつては土塁だったの
          でしょうが、現在その様子は明瞭ではありません。このほか、駐車場から少し下ったところに搦手虎口
          と溝状遺構があると現地案内板にはあるのですが、これに至っては何度指示されたあたりを探っても
          それらしきものは見つかりませんでした。
           さて、若神子城は誰が築いたのか、そしてそれはどの程度の規模であったのかが論点といえます。
          公園には、新羅三郎義光による築城伝説から、甲斐源氏発祥の地と大きな看板が置かれています。
          しかし、私は義光(ないし義清)築城説には懐疑的です。当時の状況をみるに、居館は置かれたかも
          知れませんが、山上の城砦を築く必要があったようには思われないからです。
           次に、戦国期武田氏による利用という点ですが、これはあったものと思います。ただし、狼煙や街道
          沿いの伝えの城程度のもので、その規模は限定的だったもの推測します。おそらく、現在の主郭近辺
          ぐらいが城域立ったものと考えます。というのも、もし武田氏によってひとかどの城郭に仕上げられたと
          すれば、甲斐国内の他の武田氏の城跡と比べて、残っている遺構がきわめて少ないようにみえるから
          です。比較的よく残っている主郭とその腰曲輪、および主郭北側の堀切が武田氏時代の遺構であり、
          副郭以北が後北条氏によって新たに設けられた部分と考えるのが妥当なように思われます。北条軍
          としては、本陣とする以上将兵の駐屯スペースが重要であるため、副郭が主郭に対してかなり広大で
          あることも、これで説明できようかと思います。
           いずれにせよ、公園としてしっかり造成されてしまったので、これ以上の検証は今後とも困難といえ
          そうです。現地説明板には、誇らしげに公園計画の意義と費用まで明記されています。億単位のお金
          がつぎ込まれたそうですが、公園としてはよく整備されているものの、史跡としては少々残念な感じに
          仕上がってしまった印象です。

           
 検出された薬研堀跡。畝が設けられています。
主郭の土塁。 
 主郭西側下の腰曲輪。
大手口と宿借石。 
手前の石垣は、どう見ても公園化で作られたもののようです。 
 搦手の備え。土塁跡か。
副郭東側下の腰曲輪と復元狼煙台。 


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