中鳥城(なかとり) | |
別称 : なし | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 浅野但馬守か | |
遺構 : 曲輪跡、土塁、堀、土橋か | |
交通 : JR土讃線阿波池田駅からバスに乗り、 「清水」下車徒歩40分 |
|
<沿革> 『日本城郭大系』によれば、浅野但馬守の居城で後に久米刑馬が拠ったとされる。浅野氏および 久米氏について詳細は不明である。 天正六年(1578)正月二十八日、白地城主大西覚養の弟で、土佐の長宗我部元親の人質から その客将となった大西上野介頼包は、刑馬を誘って中鳥のすぐ北の重清城主小笠原豊後守長政 を謀殺した。その後、重清城は2度にわたり長宗我部氏と三好氏の間で争奪戦が行われているが、 中鳥城および久米氏の動静については明らかでない。 <手記> 中鳥城は、今日では吉野川の川中島の丘となっている城跡です。グーグルマップなどでは河中 に完全に没していますが、上図のように、川の水位が低ければ地続きとなって歩いて渡れます。 下の遠景写真を見ると、すぐ麓に車が止まっているのですが、どうやって行くのかは分かりません でした。北の堤防下にある伊射奈美神社の駐車場を拝借し、堤防を下りて林を抜け、丘の北西側 から河原を渡るのが確実と思われます。 中鳥はもとから中洲でしたが、かつては城跡の丘を南辺の中心とし、上の図で伊射奈美神社の すぐ北に見える緩やかなカーブを北辺とする、ミドリムシ状のそれなりに広い川中島でした。島内 には民家や耕作地が広がっていましたが、吉野川の堤防工事を受けて平成の初めに全戸移転 したそうで、今の荒涼とした河原の姿からは想像ができません。 丘の南西隅に矢印の描かれた岩があり、それに従って岩場を登ると、ロープのついた登山口が あります。藪道ではありますが、このロープさえ見つかれば迷うことなく主郭跡に直登できます。 これを初見で発見するのはかなり難しいと思われ、私は主郭から下りる際に気付きました。 主郭は前出の伊射奈美神社が鎮座していたところで、城跡や中学校跡などについて書かれた 石碑が建っています。敷地の縁には土塁状の高まりが巡っていますが、遺構なのか神社の造作 かは不明です。また、敷地北側に土橋がありますが、これも遺構かは不明。土橋の両側は、堀跡 のようにも見えますが、人が去った後とて丘全体がド藪となっていて、旧地形をうかがうのも困難 です。 主郭の東側にも旧道が伸びていて、緩やかな斜面は段築状に均されています。居館や根古屋 が営まれていたとも考えられますが、やはり藪化しているので詳細は不明です。私は丘の南東側 まで回ったところで、覚悟を決めて竹藪に突入し、これまた遺構かは定かでない切岸をよじ登り、 この旧道に出ました。 前述のとおり、中鳥城跡は吉野川の水位が低いときでなければ行けません。私が訪れたときは 雲一つない快晴が5日ほど続き、これ以上ない訪城日和でした。もともと私は城跡限定の超晴男 なのですが、スタンド能力を遺憾なく発揮できてよかったです笑 |
|
東から中鳥城跡を望む。 | |
北西側から望む。 こちらから歩いていくルートがおすすめです。 |
|
城山南西隅。左手の矢印のある岩が目印。 右手奥のロープのある登山口を見つければ、 主郭まで一本道です。 |
|
主郭跡の城址碑。 | |
主郭跡の伊射奈美神社跡碑。 | |
主郭を巡る土塁状地形。 | |
主郭跡北側の土橋。 | |
主郭跡から東に延びる旧道と段築地形。 | |
城山南東辺の切岸状地形。 | |
主郭跡から遷座した伊射奈美神社。 |