重清城(しげきよ)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 小笠原長親
 遺構  : 曲輪、土塁、堀、虎口、井戸
 交通  : JR土讃線阿波池田駅からバスに乗り、
      「清水」下車徒歩20分


       <沿革>
           鎌倉時代前期の阿波守護小笠原長房の子長親によって築かれたと伝わる。長親は弘安四年
          (1281)の弘安の役における恩賞として石見国邑智郡村之郷を与えられ、石見小笠原氏の祖と
          なった。石見領は長親の嫡男家長が継いでおり、その弟(長行か)が重清城に残ったものと推測
          される。重清小笠原氏は室町時代には細川氏ついで三好氏に従った。
           天正六年(1578)正月二十八日、白地城主大西覚養の弟で土佐の長宗我部元親の人質から
          その客将となった大西七郎兵衛(上野介頼包)は、中鳥城主久米刑馬を誘い、重清城主小笠原
          豊後守長政を城中で謀殺した。前年に城を元親に攻め落とされ、讃岐の麻城に落ち延びていた
          覚養は、同年に麻城も落城すると頼包に説得されて投降し、重清城主に据えられた。
           長政の嫡男長定は、ほどなく勝瑞城主十河存保に訴えて、重清城奪還の兵を挙げた。覚養は
          長定の開城要請を受けて城を出たが、十河勢に追撃されて戦死した。
           翌天正七年(1579)、元親自らが白地城から阿波侵攻の兵を送り、存保は重清城に3千の兵を
          詰めて迎え撃った。讃岐からの援兵も加わり、十河方は5千余となったが、吉野川を挟んで対峙
          する土佐勢はそれを上回る大軍であったとされる。先鋒の頼包および久武内蔵助(親直)が川を
          渡って両軍が激突したが、数で勝る土佐勢が押し切って重清城を攻め落とした。
           その後の重清城については定かでない。


       <手記>
           重清城は、吉野川の河岸上にあった阿波の城館のなかでトップクラスの遺構を残しています。
          南側が民家で少し削られているものの、主郭周囲の土塁や東側の二重堀および二重土塁が、
          ほぼ完存といった姿で保存されており、眼福の一言です。さらに、主郭虎口脇には横矢状の張り
          出しも具えられ、戦国時代末期の特徴も見て取れます。
           主郭内には小笠原神社がありますが、社殿は撤去されたようで、小祠だけが残されています。
          北東隅には石造の井戸があり、西側の舟屋谷沿いには腰曲輪も認められます。
           ところで重清小笠原氏は、一宮市や七條氏といった阿波国内の他の小笠原氏庶流と異なり、
          小笠原姓を称し続けていたようです。小笠原長房の子長親の直系ということから、あるいは阿波
          小笠原氏の嫡流という自覚があったのかもしれません。重清城は吉野川河岸から少し奥まった
          ところにあり、有事の際には河岸の台地全体を城砦と見立てて軍を展開したとも考えられます。
          とするなら、その規模は阿波小笠原氏の嫡流に相応しいといえるでしょう。

           
 重清城跡遠望。
重清城跡標柱と説明板。 
 主郭東辺の堀と土塁。
同じく二重堀と二重土塁。 
 同じく主郭張り出し部の堀と土塁。
主郭北東隅の堀と土塁。 
 城内のようす。
 左手が小笠原神社の本殿跡。
主郭虎口を城内から。 
 主郭北東隅のようす。
主郭北東隅に残る石造の井戸。 
 主郭西辺の土塁。
主郭西側、船屋谷沿いの腰曲輪。 
 腰曲輪から主郭土塁を見上げる。


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