今帰仁城(なきじん)
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: 今帰仁按司か
 遺構  : 石垣、湧水
 交通  : 那覇から「やんばる急行バス」乗車。
      「今帰仁城趾入口」バス停下車徒歩15分


       <沿革>
           1260年に英祖王統を打ち立てたとされる中山王浦添城主英祖の次男湧川王子が、
          今帰仁城主および今帰仁按司となったとされる。今帰仁城は英祖ないし湧川王子に
          よって築かれたとみられるが、詳細は不明である。
           湧川王子の4代子孫にあたる今帰仁仲宗根若按司は、1322年に父の仲昔今帰仁
          按司の従弟にあたる羽地按司怕尼芝に攻め滅ぼされたとされる。怕尼芝は今帰仁城
          へ移り、北山王を名乗った。怕尼芝の在位は70年以上に及んだとされ、即位時には
          すでに成人していたと思われることを考慮すると不自然なことから、数代にわたって
          同じ名を継承したものと推測されている。その後、北山王は怕尼芝の子a(みん)、
          その子攀安知と続いた。近年では、怕尼芝と攀安知は羽地(はねじ)の中国語での
          当て字として、個人名ではなく称号であったとする説が有力視されている。
           北山王国は、中山や南山と並んで明に朝貢を行い、いわゆる琉球の三山時代を
          形成した。1416年、今帰仁城は下克上により中山王となっていた尚巴志王に攻め
          られ、落城した。攀安知は自害し、北山王統は絶えたとされる。尚巴志の妻眞鍋金
          は、今帰仁仲宗根若按司の八男伊覇按司一世(今帰仁王子)の娘とされる。
           尚巴志は、眞鍋金との間の次男尚忠を北山監守として今帰仁城に置いた。1439年
          に三山を統一した尚巴志王が死去すると、尚忠が2代琉球王に即位し、北山監守は
          弟の今帰仁王子が継いだ。以後、北山監守は主に王族が任じれる官職として続き、
          今帰仁城はその官府となった。
           1469年に第6代尚泰久王の重臣であった金丸が尚円王として王位に就いて第二
          尚氏王統が成立すると、尚円王の子で3代尚真王の三男今帰仁朝典(尚韶威)の
          子孫が北山監守を世襲した。
           1609年、薩摩藩島津家は琉球へ兵を送ると、3月16日に徳之島を、同月22日には
          沖永良部島を制圧した。3月25日、島津軍は今帰仁近くの運天港に上陸し、27日に
          今帰仁城へ向かった。しかし、城内はもぬけの殻だったため、島津軍は無血で城を
          占領し、方々に放火したとされる。琉球王国の史料によれば、その翌日に北山監守
          今帰仁朝容が死去したとされるが、その経緯は定かでない。まもなく琉球は薩摩藩
          と和睦(実質的に降伏)し、北山監守も存続した。
           1665年、朝容の孫にあたる今帰仁朝幸は首里城下への移住を命じられ、これに
          より北山監守は廃止となった。薩摩藩侵攻後の今帰仁城の処遇については明らか
          でないが、遅くともこの時までに廃城となった。しかし、城跡の管理は引き続き朝幸
          の系統である向氏具志川御殿が行った。
 

      <手記>
           沖縄本島の北半は山が多く、開発に向いているのは本部半島周辺だけといっても
          過言ではありません。今帰仁城はその本部半島の北端近くに位置しています。とは
          いえ今帰仁城の周囲もあまり平地がなく、町場を形成するなら名護や本部、羽地の
          方が適しているように思います。東には沖縄を代表する天然の良港の1つ運天港が
          ありますが、決して近いとはいいがたく、個人的にはなぜ今帰仁が北山王国の都と
          されたのか少々不思議に感じています。
           さて、今帰仁城跡は世界遺産「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の構成資産の
          1つとなっていて、駐車場やビジターセンターなど観光地としての整備が進められて
          います。那覇からは観光用の高速バスも運行されていて、車がなくても訪問は容易
          です。
           城は、頂部の主郭から北へ向かって雛壇状に曲輪が並んでいて、熊手状ないし
          扇状に広がる縄張りが印象的です。外郭線の石垣はシャコ貝のように波打っていて、
          これが本土でいう横矢のような工夫なのか、あるいは別の目的があるのかは定か
          ではありません。
           一番外側の外郭は自由に歩けますが、その先の平郎門より奥は有料です。門の
          先は主郭まで真っすぐ階段が伸びているのですが、これは後世に造られたものです。
          行きか帰りのどちらかは、ぜひその隣の旧道の石段を歩いてみてください。こちらは
          虎口状の屈曲があったり、道幅が上に行くほど狭くなっていたりと、城らしい防衛上
          の工夫が見られます。
           頂部は主郭・大庭(ウーミャ)・御内原(ウーチバル)の3つの曲輪に分かれていて、
          そのうち外から最も目立つ北側が、主郭ではなく御内原となっています。御内原は
          城に仕える女官に関わる場所とされ、ここからは1段下の大隅(ウーシミ)やその下
          の外郭の石垣、そしてその先に海を眺めることができ、城内で一番の眺望&撮影
          スポットとなっています。首里城も、場内最高所が「京の内」という祭祀空間となって
          いて、城内で最も重要なポイントを主郭ではなく宗教的な施設が占めているという点
          で共通しているのは興味深いところです。
           主郭背後の一段下には、城内最後尾の志慶真門郭(しげまじょうかく)があります。
          ここも、主郭の石垣を見上げることのできる絶好の撮影スポットなのですが、2018年
          の台風で石垣が一部崩落してしまったそうです。この曲輪ではいくつかの建物跡が
          見つかっていて、城主に仕える用人ないし職人の住居と考えられています。
           世界遺産登録を機に、今帰仁城跡の発掘調査及び整備はこれからも進められて
          いくようです。付近には沖縄有数の観光名所の1つ美ら海水族館もあるので、良い
          形で観光地化が進展していくことを期待します。

           
 記念撮影スポットの大隅の石垣前。
大隅の石垣。 
 外郭の石垣。
平郎門。 
 旧道の石段。
平郎門脇のカーザフという曲輪。 
 虎口状の大庭への入り口。
御内原からの眺望。 
 御内原から志慶真門郭と城の東の谷を望む。
主郭の主殿跡と石垣。 
 主殿跡と主郭のようす。右手は大庭。
常時水を湛えているという泉「カラウカー」。 
 志慶真門郭。
志慶真門郭から主郭の石垣を見上げる。 
 大庭。
城外に展示されている、世界遺産4城郭の石材。 


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